腐らないおにぎり

 人口100万人の都市から人口3万人の田舎に転勤で引っ越してきてからは、日ごろから自炊をするようになった。都会暮らしで散財しすぎたぼくは、ここで一息入れる意味でも貯金に励んでみようと思ったのである。

 前の家はキッチンの調理スペースがまな板1枚分しかなかったこともあって、仕事から帰ってきても料理をやる気が起きなかった。しかも都会は飲食店が多い。仕事が終わり、ビルを出ると、目に入ってくる店先のオレンジの光は大いにぼくを誘惑した。ひどいときは週1回は食べに通っていた煮干しラーメンは、まさに罪な味であった。それと同時に出費もばかにならなかった。外食すると1回で800円は使ってしまうから、お金がたまらないのも当然であった。外食しない時でも、自宅から徒歩10秒の距離にコンビニがあったから事情は同じであった。

 都会暮らしに慣れてしまっていたぼくにとっては、転勤は思わぬ形で生活を変えるいいきっかけとなった。

 実際に自炊をしてみると、当初の想定より経済的であったし、何より、自分で作るご飯は想像以上に美味しかった。

 よく自炊するより出来合いのものを買った方が安いと言う人がいるが、おそらくその人は実際にスーパーで食材を買って家で調理をしたことの無い人だ。たとえば、吉野家で牛丼並盛一杯は税込み426円かかるようだが、自分の家で作るとしたら同じ値段で倍量は食べられるかもしれない。牛肉200gと玉ねぎ1個、味付けは家庭にもよるが、醤油、酒、みりん、砂糖で十分美味しい牛丼が2~3人前は作ることができるだろう。

 しかも不思議なことに、自分で作った料理の味に慣れると、チェーン店の味や市販のものの味がそこまで美味しいと感じなくなる。たしかにお店の味や出来合いの食品は美味しいとは思うのだが、どこか「おおげさ」な感じがする。それに対して、自分で作ったおかずの味はどこかほんのりと優しい味わいがある。ぼくはゴーヤチャンプルーが好きなのだが、醤油と顆粒だしというシンプルな味付けだけでここまで美味しいと思えるのかと感動したほどだ。

 市販の食品を食べて「おおげさ」な味だと感じるのも無理はないかもしれない。なぜなら、市販の味は実に多くの添加物によって味が加工されているからだ。

 ぼくは一度恐ろしい経験をしたことがある。こちらに転勤する前の時の話だが、出勤前にコンビニでおにぎりを買ったが食べるのを忘れてリュックの中に1週間放置してしまったことがあった。そんなこととはつゆ知らず、探し物をしていてリュックを漁るとなにやら固い物体が手に触れた。それはなんと1週間前のコンビニのおにぎりであった。食べ物は時がたてば腐るのが普通なのに、そのコンビニおにぎりは腐らず、ただただカチカチに固まっていたのである。

 コンビニおにぎりには何が入っているのか、成分表示を見て買う人はほとんどいないだろう。試しに、先ほど買い物へ行ったついでにセブンイレブンで新商品のサーモンハラスおむすびを買ってみた。米と焼鮭を食すだけなのに、原材料名には10種類もの項目が記載され、増粘剤、pH調整剤、調味料(アミノ酸等)、グリシン酸化防止剤(チャ抽出物)、カラメル色素、甘味料(甘草)、(一部に小麦・さけ・さば・大豆を含む)と7種類の添加物が加工されている。それら添加物のどれもがその文字をみただけでは何が何だかさっぱりわからないものばかりである。けれどもきっとそういった添加物のおかげで、おにぎりは腐らなかったのである。

 ぼくたちは日ごろから、驚くほどに、自分がいったい何を口にしているのか意識していない。こんなにも健康が重要視され、食は健康に直結するにもかかわらず。

 

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 つい最近読んで感銘をうけた本に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』というのがある。著者のキャスリーン・フリンは世界的に有名なフランスの料理学校ル・コルドン・ブルーを卒業した遅咲きの料理人でフードライターである。彼女はある日、24時間営業の大型スーパーでカートいっぱいに加工食品や冷凍食品を積み上げている女性に出会い、勇気を出して声をかける。こんなにも食材の選択肢のあるスーパーで彼女はなぜ出来合いのものを買うのか。「箱入りの食品は失敗しないから。」その一言を聴き、料理人として、またライターとしての彼女は料理ができないと思い込む人々の意識を変えたいと、料理教室を開くことを決意する。10人の参加者で始まった料理教室は、紆余曲折がありながらも、確実に参加者の料理に対する考え方を変えていった。包丁の握り方に始まり、鶏肉は丸鶏からさばくこと、パスタソースもパンも自分で作れること。テイスティングを通して、普通に売っている塩でも種類によって味が全く異なるものであること。固定観念をとりさり、自ら能動的に調理に取り組む姿勢は、料理をできないと思い込む自分を変えるばかりか、各々の人生を豊かにしていくきっかけにもなっていく。

 キャスリーン・フリンは、調理という営みを通じて、現代社会が見まいとしてきた多くのことを指摘する。

 ぼくたちは長い間、料理は難しいものだと思い込まされきた。職場などで自炊をしていると言うと「すごいね!」と褒められる社会では無理もない。あるいはぼくたちは、企業のマーケターの仕掛けるテレビCMなどの認知戦略によって、簡単な炒め物やパスタソースさえも自分では決して作れないのだと刷り込まれているのかもしれない。*1だから料理とは、とても時間がかかり、難易度が高くて、時間的余裕がなければとてもじゃないが取り組めないものとみなされている(健康を気にする人は多くの時間とお金をジム通いやヨガ教室などに費やすというのに)。よって、常に時間の無い現代社会では必然、出来合いのものは重宝される。たとえ自炊をするよりコストがかかるにしてもである。

 結果として、現代では、料理は見学するものと見なされるようになったと言えるだろう。*2YouTubeで人気料理店での調理映像を観たときに、実際にその店に足を運ぶ前に、「これなら自分でも出来る」と思い、行動に移す人間がいったいどれだけいるだろう。

 ぼくたちは無意識に企業側の言いなりになって食品を買い続けるべきではない。彼らの目的は、乱暴にかつ現実的に言えば、脂肪・塩・砂糖の黄金比を消費者に味わせることで脳内のドーパミン放出を促し、加工食品中毒者にさせることなのである。*3そしてそこには当然、栄養という概念は無い。*4でなければ、市場に流通するおにぎりが消費期限を過ぎても腐らないという狂気を説明できないからだ。

 調理という営みが徐々に家庭から消えて行き、多くの人がコンビニや外食産業や出来合いの食品に頼るようになってきた。その結果どういうことが起きているか。現代人は自分の口に入れるものをただただ提供されるがままに食す。そこには栄養という発想は一切なく、満腹中枢を満たせればそれでいい。

 けれども、何を口に入れているのかについて無自覚のままでは、身体の悩みや問題についての解決策もなかなか見出すことができない。特に分かりやすいのは肥満という現代病についてだろう。ぼくは自炊を始めてみて数ヶ月で、以前と食べる量は変わらないのに体型を維持できているし、むしろほんの少し瘦せたかもしれないと感じている。要因としては飲酒量が減ったことなども考えられるが、最も大きい要因はコンビニ飯をほとんど食べなくなったことにあると思っている。同書の中ではイギリス人シェフのジェイミー・オリバー氏の自炊をすればするほど痩せるという主張も紹介されている。ぼく自身は自らの身体で実感しているのでおそらく彼の意見は正しいと思う。たしかに外食産業やコンビニ飯に依存する社会で肥満が増加するのは必然的かもしれない。その理由は、外食や出来合いの食品の中に単純にカロリーの高いものが多いこともあるかもしれないが、今のところ最も説得力のある原因として、それらの中には糖のエネルギー代謝を低下させる果糖ブドウ糖液糖などの原材料が多く添加されているからだとふんでいる。*5さらには先に見たような、食品保存期限を長引かせる様々な添加物も肥満に加担しているかもしれない。いずれにせよ、調理場から離れ、自らの食に関心を持たなくなった現代人は、かつてより多くの身体的問題を抱えるようになったと言えるのではないか。

 

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 思えば、調理という行為は、ヒューマニズムに埋もれた現代人にとっては生き物との接点を保つ唯一の道であると言っても言い過ぎではない。ぼくたちがどこまでいっても有機体でしかないという実感は、生き物を捌き、殺し、焼いたり煮たりしては摂取し、排泄することを通じて得られる。その入り口として調理という営みがあるのだ。哲学者の鷲田清一は、調理という場すらファーストフードやコンビニに外部化してしまう現代社会に、次のように警鐘を鳴らす。

誕生・病気・死は、人間が自然の存在、有限な存在であることがもっともあからさまに突きつけられる場面である。その重要なシーンが、病院など非日常的な空間で展開されるようになり、家庭という日常生活の場から遊離してしまった。いや、隠されてしまったといったほうがいい。そういう意味で、調理は、自然との接点として家庭内に残されていた最後のいとなみだったのである。この調理過程までが外部化するというのは、わたしたち人間の現実感覚にとって、何か決定的な変化を意味するようにおもえてならない。*6

出産も死も病院でしか見られることのない世の中では、調理という場は生き死にに人間が関わることができる貴重な場であった。自分が生きるために他の生命を殺すこと、その命をいただき、自分の体が作られていくこと、そうして存在する自分も有限な存在であり、壊れもすれば消滅もすること*7

 抽象的な話をしているように感じられただろうか。そう感じるのも無理はないのかもしれない。もう既にぼくたちは、調理の場から遠ざけられたというまさにその実績のおかげで、自分が口に入れる食べ物によって自らの血と肉が作られていくという有機的な感覚を忘れている。その意味で、ヨーロッパ発祥のスローフード運動とは、食における生産の場から調理の場へと至る道程を透明化することによって、いわば食の消費者主権を取り戻す運動であったのである。

 鷲田が言うような、調理の場の外部化がもたらす人間の現実感覚の決定的変化とは何を意味するのか。彼が言いたいのは有機体としての実感の喪失、ということなのだろうが、ぼくにとってはそれ以上の、もっと不気味なものに感じられる。それは失われると同時に何かが侵食してくる感覚、といってもいい。それはまさに、カチカチに固まったコンビニおにぎりを見た時の不気味さにとても近いものだ。日頃健康には無頓着であったぼくが食品に入っている添加物を気にするようになってしまったのは、別に健康意識が高まったからではなく、食べ物の寿命を延ばせる程の強烈な化学薬品を日頃から口にしていることに恐怖を抱いたからである。その恐怖心は理性的認識ではなく、ぼくのゲノムに刻まれた本能の発する警報だったろう。硬質化したおにぎりを見てぼくは、震災後の、大気中の見えない放射能ガイガーカウンターで可視化されていく恐ろしさを追体験したような気がするのである。

 消費期限が過ぎても腐敗しない食べ物をぼくたちが無意識に、美味しいものとして食べているという事実。ここには何か、自然の摂理への反逆、人類の尊大さが垣間見える。そしてそのしっぺ返しは、まるでゴジラの出現のように、既にぼくたちに何らかの警告を発していないのだろうか。この50年程でタバコを吸う人間はほとんどいなくなったというのに、未だに日本ではガンにかかる人間が2人に1人であり、ガンで死ぬ人間は3人に1人である。あるいは、日本では夫婦の5〜6組に1組は不妊治療の経験がある。そして健康長寿を至上命題とする現代人にとっては不都合なことに、国内の令和4年1~3月の死亡者数は前年同期比で3万8630人増加した。これらの事象が、日頃から摂取する化学薬品などが原因となって引き起こされているのか、真実は永久に闇の中である。ただただぼくは、現代に生きる限りは素人には実態を知る術もないような化学薬品に曝露され続ける宿命に対して、半ばブレーキのきかない列車に乗ったような気分で、絶望し、しかしどこか醒めてもいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』キャスリーン・フリン、きこ書房、2017年、36頁。

*2:同上、33頁。

*3:同上、228頁

*4:同上、35頁。

*5:『カロリー制限は本質的に意味がない〜食事法シリーズ』 | Dr.崎谷ブログ (paleo.or.jp)

*6:『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』鷲田清一、株式会社講談社、2011年、130~131頁。

*7:同上、131頁。