今日は人の上

 みなさんは今でも嫌いな人間のことを思い出すことがあるだろうか。人は不思議なもので、好きな人間よりも嫌いな人間をふと思い出してしまうことが多い。本当は好きな人間と共有した時間に思いを馳せた方が幸福な気持ちになれようものだが、人間の性(さが)なのか、ぼくたちは嫌いな人間から味わった苦痛や苦い思い出を愚痴っては怒りを増幅させ、同時に自らの心を慰めてもいる。この心理現象に名前をつけられるのであれば幾分か救われる気もする。

 ぼくは大学時代に、10年に一度出会うか出会えないかという程の嫌いな人間に巡り合った。その人とは学科もサークルもいっしょであったため否が応でも関わらなければならなかった。その人を形容する一言を言えと言われれば、まず自信家という表現がしっくりくる。サークル運営でもアルバイトをしているときでも、自らの言動に揺るぎない自信をもっていて、自分は決して間違うことはないのだという態度が発言や振る舞いに如実に表れていた。また、そうした自信ゆえなのか彼はどこか人を見下すような高慢さも併せもっていた。彼は仕事のできない人間や自分より能力が劣っているとみなす人間に容赦なく陰で暴言を吐いた。そういった態度がまた、優秀ではあるはずの彼が周囲との人間関係をギクシャクさせる原因ともなっていた。

 彼のよく言う言葉に「自己責任」というフレーズがあった。期末試験や就活等でうまくいかなかった者に対して彼はそのフレーズを好んで使っていた。たとえ直接その表現は使わないときでも、彼のかける言葉には基本的な調子として、自ら招いた行動の結末は他でもない自分自身が責任をもって始末をつけるべきだというニュアンスが込められていた。

 社会学に少しでも興味のある人間であれば、「自己責任」というキーワードで1970年代から勃興してきたネオリベラリズムの思想を思い起こすかもしれない。世界的な潮流として、先進国の手厚い社会保障政策こそ経済政策がうまくいかない元凶と見なされ、福祉国家への風当たりが強くなった。その後、80年代以降はグローバル化が勢いを増し、国境を越えた資本の移動や多国籍企業の地球規模での生産活動が当たり前となっていった。*1国家はそうした多国籍企業に歩調を合わせるようにして、法人税率引き下げなどの企業負担の軽減や規制緩和を慣行する一方で、労働者の雇用環境は次第に不安定なものとなっていった。次第に人々は政府に頼るのではなく、自らの責任において労働市場という荒波をくぐり抜けていかねばならなくなった。

 ぼく自身は95年生まれだが、ぼくが生まれる数年前、90年代初頭に日本ではバブルが崩壊し、いわゆる「失われた20年」に突入していった。日本では、それまでの学歴競争を勝ち抜きいい会社に入れば何とかなるという見通しは通用しなくなっていった。男性の働き手が長期安定雇用と年功賃金により家計を支え、家族は子どもの教育費に多額の費用をかけ、教育を修了した子どもは新卒一括採用によって企業に支えられる。他方で政府はこの循環構造を利用して、企業の雇用さえ守れば教育と家族への社会保障支出を抑制できた。*2ところが、高度経済成長時代以降に形成されていったこの「戦後日本型循環モデル」*3もグローバリゼーションによって揺らぎ、バブル崩壊によって実質的に終焉を迎えた。

 今は死語となったかもしれないが、「勝ち組」「負け組」という用語が使われるようになったのもちょうど前述の時期、だいたい90年代後半からである。*4ぼくの世代というのは安定的な生き方のモデルが現在進行形で溶解していく時代に生をうけ、物心つく頃から社会とは自らの責任のもと、独力で生き抜いていかなければならないものと思ってきた世代である。ぼくの嫌いな彼の勝ち誇り人を見下すような態度も、言わばグローバリゼーションが強いた苛烈な競争社会という生態系に適応した姿だったのかもしれない。

 自己責任意識が強いことは、自分の失敗も素直に許容できず自らに重圧をかけるような生き方を選ぶということでもある。だからこそ、もし人生で成功をつかんだ暁には、自らに課した重圧から解放されると同時に、その成果は自分の存在を何よりも肯定する材料となる。

 「自己責任」は負の形としてしばしば失敗に使われることが多い。そしてそれは、正のイメージに使われる時「能力主義」という形をとる。「努力が身を結んだ」というのはこの代表的な表現である。わざわざ言葉にすると違和感がある程に、この価値観はぼくらの深層心理にまで深く刻み込まれている。

 

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 人が何か失敗した時、「自ら招いた行動の結末は他でもない自分自身が責任をもって始末をつけるべき」であるなら、その規範は裏を返せば、ぼくたちが何か成功した時その成果はその人の手柄であることを含意する。成功者はほかならぬその人の能力によって何事かを勝ち取ったのである。

 ぼくたちはたとえば試験に合格した時や就活で内定をもらえたとき、それを自らの能力によって獲得した成果だと思う。これまでの練習や努力が実を結び、結果につながったのだ。成功はその人の能力が正当に評価されたことの証であり、成果物はその人の功績なのだと。

 そんなの当たり前だと思われるかもしれないが、意外にも、このような自らの能力によって何かを勝ち取るという考え方が広まったのはここ40年くらいのことに過ぎない。初めて公にフレーズ化したのは当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンだった。

「すべてのアメリカ人に個人の能力や功績のみに基づいて評価される権利がある」

「本人の努力と夢が許すかぎり出世する権利がある」*5

その後はバラク・オバマもこのレトリックを好んで使用した。

・・・つまり、この国では、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、名字が何であろうと、どんな挫折を味わおうと、懸命に努力すれば、自ら責任を引き受ければ、成功できるのです。前へ進めるのです。*6

 

 このような能力主義はとりわけぼくくらいの世代の人間にとっては当たり前の価値観である。戦後日本の循環モデルが崩壊したあとの日本では、「ゆとり教育」の方針も相まって、「人間力」や「生きる力」を身につけて先行き不透明な社会をとにかく生き延びろと要請されてきた。その結果、多くの人は社会人になれば誰にも頼らず独力で労働市場に対応していかなければならないのだと思うようになった。実際、2007~11年期間中の若者の意識調査では、「若者が安定した仕事につけないのは、本人のがんばりが足りないからだ」「貧しいのは本人の責任だ」などの「自己責任」に関する項目の肯定率は約5割にのぼる。また、「自分の能力を発揮して上げた実績によってその人の価値が判断されるのは、良いことだ」「仕事には、その仕事にふさわしい能力をもった人がつくべきだ」といった「能力主義」を評価する項目はいずれも8~9割の高水準で推移していたようだ。*7

 かつてよりも予測が難しく困難な社会であっても、懸命に働き、努力すれば彼らの才能が許す限り出世できるという能力主義は、一見すると公平で素晴らしい価値観に映る。しかし、個人の功績ばかりに焦点があてられる社会はとても過酷な社会であると言わなければならない。

 誰もが人生で一度は経験する、自信家の言動に対するいら立ちや鼻に付く感じ。これは感情的とはいえ明確な根拠がある。能力主義的態度は人の自尊心を傷つけるのだ。自分の運命は自分の手の中にある、やればできるといった指南や励ましは人を元気にさせることもあれば不愉快にさせることもある。仕事が見つからなかったり、うだつの上がらない日々を送るものにとって、自分がうまくいっていないのは自業自得であり、才能がないからだと自責の念に駆られることほど耐え難い感情はないだろう。*8こう思わなければならない社会は果たして幸せな社会なのだろうか。

 実際、こういった感情は軽視すべきものではなく、2016年にはドナルド・トランプがこの屈辱的な感情をもつ有権者を動員することによって大統領選挙を制したのである。トランプを支持した者の怒りは、テクノロジーと外部委託に伴う失業、グローバリゼーションが加速させた経済的不平等、そして何よりも、能力主義社会が生み出した「勝者のおごり」*9に向けられていた。

 能力主義メリトクラシー)という用語は今から60年前にイギリスの社会学マイケル・ヤングが作り出した。『The Rise of the Meritocracy』(『メリトクラシーの法則』)という著書の中で彼は、いつの日か階級間の障壁が乗り越えられ、誰もが自らの能力だけに基づいて出世する真に平等な機会を手にしたなら…と夢想した。だが、他でもない彼自身が、そんな能力主義社会の暗澹たる未来を見据えていた。ようやく労働者階級の子どもたちが特権階級と肩を並べて競い合うことができる。そんな素晴らしい世界の片隅で、勝者にはおごり、敗者には屈辱感が育まれていくだろう。*10勝者は自分たちの成功を自分自身の能力、努力、優れた業績への報酬に過ぎないと考え、自分より優れていない人間を見下すことだろう。成功できなかった人々は、その責任がすべて自分にあると思い込むだろう。*11

 ぼくたちは、自らの能力を疑うことは意外にも少ない。特に、高等教育の入学試験や就活を戦い抜いてきた者にとって、自分は努力した末に選抜されたという経験は能力主義的態度を形成するためのよき通過儀礼となっている。女性の貧困問題などに関わってきたライターの栗田隆子は、個人的経験として社会人になってから女性の容姿や外見にまつわる差別的なハラスメントをほとんど受けてこなかった要因について、そもそも自分は雇用の入り口でルッキズムのスクリーニングを通ってきたからではなかったかと分析する。*12つまり、彼女はすでに外見で何社か落とされており、たまたま就職できた場所が「その外見でもOK」とされた場所であったかもしれないというのである。*13紛れもないこのわたしが試験を通過できたという事実は、その選考過程について考えを巡らすことをスキップさせ、自分自身が選ばれるに値する人間だったのだと錯覚させる。現実には、採用側は受験者の能力のみを純粋に見ているわけではない。選考基準には多分にルッキズムや経済的不平等が含まれている。

 今一度、ぼくたちは能力とは案外恣意的なものなのだと再認識すべきなのかもしれない。一流大学への入学や就職内定をつかみ取ることについて、多くの人は自らの力で達成したと考える。しかし、それは本当に自分だけの手柄だろうか。献身的にサポートしてくれた親や熱意をもって指導してくれた先生や先輩がいなかったらどうだろう。あるいは、出世や事業の成功は果たして当人の功績だと言い切れるだろうか。全てがお金で測られる市場経済において成功するとは、その人が優れているとか社会により貢献してくれたなどという単純な事実を意味しない。厳密に言うなら、彼らは「類まれな天分や狡猾さ、タイミングや才能、幸運、勇気、断固たる決意といったものの不可思議な絡まり合いを通じて、いかなるときも消費者の需要を形づくる欲求や願望の寄せあつめにーそれがいかに深刻なものであれ馬鹿げたものであれーどうにかして効率的に応えてきた」*14のである。

 史上最高のサッカー選手であるリオネル・メッシの年俸は4100万ドル、日本円にして約38~45億円のようだが、この給与は高いだろうか。おそらく多くの人間は妥当だと答えるだろう。その理由はきっと「彼は苦労してきた」や「彼の働きぶりに見合っている」といったものだろう。たしかに、一瞬で試合を決定づけてしまう精巧かつ芸術的で悪魔的な得点能力はまさに唯一無二とでも言うべきである。だが、ぼくたちは同時に次のことを忘れてはならない。幼少期に成長ホルモンに問題を抱えた彼を根気強く見守った家族やスカウトの献身と見識、そしてアスリートとしても人間としても成長を支えた下部組織の存在がなければ彼は歴史に名を刻む偉大なプレーヤーにはなっていないだろうという境遇について。そしてさらに、彼が生まれ落ちた時代が、荘園領主の下で農奴として年貢を納め続けなければならないような時代ではなく、サッカーというスポーツが世界中から脚光を浴びる現代であったという幸運についてだ。

 自らの運命は自らの手でつかみ取らなければならない。自分の失敗は自分で何とかしなければならない。だが、それは本当だろうか。自己の責任をあまさず双肩に担える人間など、いったいどこにいるというのだろう。自分の運命を自分だけで決められる人間など、この世のどこを探しても存在しない。ぼくたちはこう言うべきだ。「様々な偶然や奇跡が重なって、どうにかこれまで生かされてきた」と。

 

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 「勝者のおごりと敗者の屈辱」はぼくたちの社会に修復困難な分断と軋轢を生む。成功した者とそうでない者の差が能力にしかないことほど救われないことはない。能力主義の価値観のもとでは失敗は何のせいにもできない。むしろ、こう考えることもできる。もし何かの試験で選考される基準に機会の不平等があり、資産や家柄に基づく偏向があったなら、たとえ失敗したとしても、本人にとってどれだけそれが言い訳になり、慰めになっただろう、と。*15人がどんなに不遇をかこったとしても努力や意欲が足りなかったからに過ぎないとされるのでは、社会をよりよくするための公共的議論は生まれようがない。お互いにとって、所詮「あちらの社会」での出来事に過ぎないのである。

 マイケル・ヤングには、能力主義は単に目指すべき公平・公正なルールではなく、むしろ社会的軋轢をもたらす原因に見えていた。*16彼の予言は当たったと言えるだろう。われわれの社会の中心に「能力」という名の大きな仕切りがあり、まるで世界はあちらとこちらに分かれてしまったかのようだ。成功者は自らの手で運命を勝ち取ったとおごり、運に恵まれなかった者は自らの努力不足をただただ嘆く。世界はますます単純に映る。公的な議論はどんどん空洞化し、エリートに見下されていると感じる者の承認欲求はポピュリズムナショナリズムなどの極端な政治的言説に利用されていく。本当は、ぼくたちは経済的格差だけでなく、社会的敬意についてもっと注意を払うべきなのだ。

テクノロジーや外部委託に起因する失業に伴って、労働者階級が携わる仕事に対する社会の敬意が低下していると感じられるようになった。経済活動がモノをつくることから資金を運用することへと移行し、ヘッジファンドのマネジャー、ウォール街の銀行家、知的職業階級などに対して社会が途方もない報酬を気前よく与えるようになると、昔ながらの仕事に払われる敬意は脆く不確かなものになった。*17

 

 問題はパイの分け前が少ないことではない。機会の不平等でもない。そんなに遠くない昔、アメリカでは黒人や女性に人権は適用されていなかった。彼らが「人間」としてカウントされていなかった時代があった。*18これは機会が平等になれば解決する話ではない。スタートラインを同じにすることが大事なのではなく、そもそも競争をしていい結果を残せなければ尊厳が得られない世界が問題なのである。機会の平等は、不正義を正すために必要な救済のための原則ではあっても、善き社会にふさわしい理想ではないのである。*19

 ぼくたちが心から望んでいるのは、どんな生活水準であってもお互いの社会的価値を理解し合い、尊厳をもって暮らしていける社会であるだろう。そんな柔らかい社会の実現にとって、能力主義的態度は何よりも大きな障壁としてぼくたちの前に立ちはだかる。成功者の高慢さは成功できなかった者の自尊心を傷つけ、傷ついた者たちは劣等意識によってどこまでも自分を嫌いになってしまう。自らのアイデンティティが絶えず揺らいでいる現代人には連帯意識や公共討議の形成が非常に困難なものに映る。ぼくたちは、自分とは年齢や職業、ジェンダーの異なる他者の立場を想像したり、彼らの話を傾聴したりすることが次第にできなくなりつつある。

 生産性で人間の価値が測られてしまう厳しい世界にあって、ぼくたちが公共的態度を育むには、何より運命に対する謙虚さが求められる。なぜなら、己の境遇は奇跡と言ってもいい偶然性に満ち溢れているという実感こそが、他者の不幸を他人事ではないと思わせる契機となるからだ。哲学者のマイケル・サンデルが次のように述べる謙虚さはぼくたちの生き方の良き手本となるものだ。

・・・われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。*20

 

 ぼくたちはここから始めるしかないのかもしれない。

 

 たとえ山の頂からの景色を見ることがかなわないとしても。

 

 

 

 

 

 

*1:『Do ソシオロジー』[改訂版]友枝敏雄・山田真茂留編、株式会社有斐閣、2013年、208~209頁。

*2:『平成史講義』吉見俊哉編、株式会社筑摩書房、2019年、133~134頁。

*3:同上、133頁。

*4:友枝敏雄・山田真茂留編、前掲書、127頁。

*5:『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル、株式会社早川書房、2021年、100~101頁。

*6:同上、102頁。

*7:吉見俊哉編、前掲書、155~156頁。

*8:マイケル・サンデル、前掲書、41頁。

*9:同上、48頁。

*10:同上、47~48頁。

*11:同上、48頁。

*12:現代思想 11月号vol49-13 |特集|ルッキズムを考える』青土社、2021年、142~144頁。

*13:同上、144頁。

*14:マイケル・サンデル、前掲書、199頁。

*15:同上、199頁。

*16:同上、48頁。

*17:同上、48頁。

*18:『日常・共同体・アイロニー宮台真司仲正昌樹、有限会社双風舎、2004年、63頁。

*19:マイケル・サンデル、前掲書、318頁。

*20:同上、323頁。