『暇と退屈の倫理学』 雑な要約

●資本主義・消費社会化⇒暇が搾取されている。退屈な時間をどう使えばいいかわからない。暇の中で退屈してしまう。 *ついYouTubeを見てしまう現代人

 

パスカルの引用 人々は退屈に耐えられないから気晴らしを求める。

例 ウサギ狩りに行く人はウサギを求めているのではない。

部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられない人間とは苦しみを求める人間のことだ。 *人間はみなドM集団だ

 

●人類史的視点 400万年前に二足歩行の人類誕生。遊動生活が基本であった時代。

⇒移動のたびに新しい環境に適応しなければならない。常に五感を研ぎ澄ましている。食料や水はどこでとれるか、河を渡るにはどうするか、寝る場所はどこにあるのか。

⇔今から約1万年前に人類は定住生活を始める(定住革命)。人間は退屈を回避する必要に迫られる。大脳を使う別の場面が求められる。それが技術の発展や政治システムなどの文明の発展につながった。

 

●暇=何もすることがない時間 退屈=何かをしたいのにできないという感情・気分

 

●消費社会論 記号消費の問題は退屈の問題。消費者は退屈している。消費社会で問題提起すべきは、実は暇をどう生きるか、退屈をどうするかという問題。

浪費は豊かであることの証であり、限界がある。人は満腹になり、一度にたくさんの服を着ることはできない。そこには身体的な限度がある。

例 狩猟採集生活においては経済計画性もなく貯蓄もしないから、手に入れた食料は一度ですべて食べつくす。彼らは大変な浪費家であり贅沢な生活を送っている。

⇔消費社会は浪費を許さない社会のこと。消費は物を受け取らないし、限界がない(*モデルチェンジすると人はついそれを買ってしまう)から延々と繰り返される。人は消費では満足感を得られず、消費は過剰になる。

 

⇒消費社会のアンチテーゼは「贅沢をさせろ」

 

ハイデッガーの退屈の整理

退屈の第一形式=駅で電車を待つ人。電車が来てくれないから駅にひきとめられている。本を読んだりして気晴らしする。

退屈させる対象があり、それへの対抗措置として気晴らし(暇つぶし)を行う。 

*現代的な例 ラーメン屋で行列。ラーメンが来てくれないので列にひきとめられている。

 

退屈の第二形式=パーティに行ってお酒を飲んだり談笑したりしてそれなりに楽しかったが何となく退屈してしまった。実はパーティそのものが気晴らしであった。

気晴らしであるはずのものそれこそが退屈であった。 

*現代的な例 会社の飲み会

 

⇒退屈の第二形式こそ現代で最も身近な退屈のありかた。必要だと思っていること、受験勉強も労働も気晴らしかもしれない。すべてがそうではないにせよ、私たちの日常は気晴らしと退屈が複雑に絡み合っている。

 

退屈の第三形式=「何となく退屈だ」という最も深い退屈。逃れようもなく聞こえてくる退屈だという声。

⇒だからこそ、退屈の第三形式は人間は自由だという可能性を示している。

⇒人間は「決断」することによって自由になることができる(とハイデッガーは言うが、、、)。

 

退屈の第三形式=第一形式

「何となく退屈だ」という声を聞き、「決断」した対象に対して人々は奴隷になる(ここでも結局気晴らしが行われることになり、退屈を与える対象への対抗措置としての気晴らしという第一形式にループする)。

簡単に破棄できるものであれば「決断」とは言えない。人は「決断」した内容に従わなければならない。

 

退屈の第二形式こそ退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものではないか。

 

退屈の第二形式は人間が人間として生きていくことのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵ではないか。

退屈と向き合うことを余儀なくされた人間は文化や文明を発達させ、衣食住を着飾ることによって人々の心を豊かにする営みを続けてきた。

=人間が人間らしく生きること、退屈の第二形式を生きること。

 

●動物と人間

ハイデッガーは人間は退屈できる(がゆえに自由)だと考えている。

と同時に、動物は退屈しないと考えている。

 

すべての生物は別々の時間と空間を生きている=「環世環」という概念(理論生物学者ユクスキュル)

どんな生物も客観的な世界のなかで生きているわけではなく、その生物が具体的に経験する世界がそれぞれある。 

例 ダニは人間のように森の中で空気を感じ、光や足場の悪さを感じているのではなく、①酢酸のにおい ②摂氏37度の温度 ③体毛の少ない皮膚組織の順番にシグナルを感じ取ることで(獲物を求めてでも血を吸うためでもなく)ダイビングする。

 

動物は特定のシグナルに〈とりさらわれ〉ている。つまりとらわれている(から退屈しない)。(ハイデッガー

⇒とらわれることがない人間は退屈する。

 

●人間らしい生ともう一つの希望

 

人はものを考えなくてもいいように「習慣」を創造する。安定した環世界を獲得する。

ドゥルーズ 人はショックをうけるとものを考える=「不法侵入」。

*3.11

一方、人間は他の動物に比べて比較的高い環世界間移動能力を持っている。

 

人間らしい生(退屈の第二形式)から外れて別の環世界に移行する。その対象(*3.11)は人間の頭から離れない=〈とりさらわれ〉て〈動物〉になること。

 

 

・・・

 

消費社会が網の目のように張り巡らされた現代においては倫理学=生き方の提示は難しい。

何を買っても浪費には至らず、記号消費に取り込まれてしまう。

退屈の第二形式的な生き方を客観化し、程よく諦めることくらいしかぼくらに残された術はないのか。

<動物>化するにせよ、世界が崩れるような衝撃的なニュースも大きな物語なき世界においては次々と更新されてゆく。「事件が事件として完結し難」いのだ(山崎正和「曖昧への冒険」)。そんな時代にあって人々はほんとうにショックを受けることができるか。