ゆとりと詰め込みと

日曜夜9時に放送されているドラゴン桜2は傑作だ。

 

教育において常識を覆す提言をいくつもしている。

 

本日第4話を観たばかりだが、今回素晴らしかったのが

 

「詰め込みこそが教育だ」というフレーズである。

 

これには単純な勉強論を超えた、大人たちへのメッセージが込められているように思う。

 

 詰め込みと聞くとみなが「ゆとり」との対立図式で語ってしまう。

 

でも、本来「ゆとり教育」とは単線的な経済成長が終わりを迎えるであろう21世紀を見据えた議論だった。

 

今までの教育観では行き詰まりをしてしまうという危機感のもと、「生涯にわたって学習する、その一環が学校教育」※だという方針の教育改革が「ゆとり教育」のはずだった。

 

だが、結局は教科書に載せる問題を減らすとかそういう枝葉ばかりが議論されてしまい、「ゆとり世代」なるレッテルも生まれてしまった。

 

ぼくたちは今一度、本質を見なければならない。

 

義務教育なんて知識をパターン暗記する場所でいいんだ。

 

ここではあえて「詰め込み」という言葉を使う必要がない。

 

そもそも順番が逆なのだ。

 

知識がなければディスカッションもできない。アクティブラーニングとやらも多分できない。思考することができない。

 

 

大げさに言えば、指針がない時代だからこそ知識の暗記が求められる。

 

なぜだろうはその後についてくる。

 

義務教育を経ての大学での学びは、そもそもそういう順序が想定されているのではなかっただろうか。

 

 

 

ゆとり教育」構想が失敗し、教育用語が次々と乱立する昨今だからこそ、

 

「詰め込みこそが教育だ」と言語化されたことの意味は大きい。

 

 

改めて、ぼくたち大人は「ゆとり」と「詰め込み」の不毛な対立を反省しなければならない。

 

教育用語の独り歩きを阻止しなければならない。

 

迷惑するのは子どもたちだから。

 

 

 

 

 

※注

deguchi-hiroshi.com