「政治」が嫌いです。

ぼくは以前から「政治」が好きになれない。

 

いや、政局が好きになれないと言った方が適切だろう。

誰誰がどんな派閥で各省庁同士の力関係はどうかとか、選挙ではどういう候補者がいて支持層はどのあたりになるのかといった票読み...

 

ぼくらの周りには常日頃から政局が溢れている。ワイドショーで訳知り顔のコメンテーターが政治家の人物像をご満悦な表情で語るのも、元政治家が次の選挙予測をするのも、どれもこれも政局である。

4年ほど前に上映された『シンゴジラ』も政局をあつかった映画だ。ゴジラ出現という非常時というにはあまりに極限的な状況に、政治家と官僚はどのように対処するか。いかなる問題であっても上司にお伺いを立て決裁を経たうえで解決を図るという通常営業の官僚機構は、ゴジラのその異形性によってもはやコミカルですらあり、観客の失笑を誘ったのであろう。とてもすぐれた作品だったと思う。

 

政局は酒の肴にはなってもパンと水にはなってくれない。たしかに、政治家とディナーをして情報をとり、国民に正確な情報を伝えることの大事さはわかるが、国民の関心ごとはそこではない。国民は日々の生活を送ることで手一杯であり、政治家はあまりに国民から離れた存在である。

だが、こう言うと、国民に近い存在をキャッチフレーズにする政治家が出てくるが、そんなのは幻想にすぎない。やっぱりそういう政治家は信用ならない。

 

政局は醜いものだ。そこでどんな血なまぐさい戦いが繰り広げられているかを知りたければネットフリックスの『ハウスオブカード』を見てみるといい。主人公フランシス・アンダーウッドは大統領への野望を抱く冷酷無慈悲な野心家である。彼は権力を手に入れるためなら利用できるものはとことん利用し、頂点へと這い上がっていく。詳細はぜひネットフリックスでご覧いただきたいのだが、ホワイトハウスで展開されるのはまさしく戦争である。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵であり、ポストのためならばどんな汚い手でも使う。そこでは国民が顧みられることはない。

 

つまるところ、政局は本来嫌われて当然なのである。なぜなら、政局は政治家というプロの仕事だからだ。権力のためには手段を問わないのが政治家である。メディアも地元有権者もロビーストもコネクションも、権力を手に入れるためならばなんでも利用する。時には法律に触れることもするかもしれない。そういったダーティーさや実利主義的能力は政治家の腕の見せ所なのである。

 

丸山眞男は政治とは人間を現実に動かすことだと言った。政治にとっては人をコントロールし、社会を目的通りに動かすことが目標であり、政治の責任は結果責任でしかないのだと。

だからこそ、政治家は人をよく操れるように、人をよく理解する必要がある。政治家の人間観は性悪説だが、それは単に人間は悪だというのではなく、どう転ぶかわからない人間を取り扱い注意として警戒するという意味だというのである。政治家は自らの目標通りに人々を動かそうとする。そして、正確に言うならば、権力闘争もあくまでそのプロセスである。権力を行使できる立場にあれば、それだけ人民を掌握できるからだ。

 

昨今話題のポピュリズムもこの文脈で捉えていく必要がある。この現象のもとでは往々にして議会が軽視され、行政手続きが軽視される。だが、本来代議制は、素人の意見が政治に直接反映されないための歯止めだった。ヒートアップした国民の熱量を、代議士と議会がクールダウンさせ、落としどころを探るための知恵であった。ポピュリズムを抑制できるのは本来代議制民主主義なのである。ところが、昨今ではそういった政治の役割が見失われている。政治家は自らの矜持を投げ捨て、素人化している。国民の意見を一部は反映するが、全ては聞かず、妥協点を探るのが代議制民主主義の強みであり、政治家の実利主義が遺憾なく発揮される場であったはずだが、現代では政治家はどうもその逆を行こうとしている。代議制民主主義のもとでポピュリズムは水を得た魚のようであり、終わってみればそこかしこに荒野が広がっている。こういう事例をぼくたちはいくつも見てきた。もう政治家は国民をバカだと思ってくれない。国民は神様状態であり、国民の意見は残さず取り入れられなければならないらしい。

 

ぼくは最近、政治にどういう距離で接するべきかわからなくなっている。でも、少なくともぼくは政局も政治家も嫌いだし、嫌いだということは間違ってはいないと思っている。

 

 

 

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八