「だからぼくは音楽を辞めた」

 仕事終わりの20時くらい。スーツ姿のビジネスマンや大学生と思しきカップルなどが雑踏する街頭。中央通りから少し入った、行きつけの煮干し系のラーメン屋の暖簾をくぐった。期間限定のラーメンをすすっていると、ヨルシカの「だから音楽を辞めた」という曲が耳に入ってきた。

 ぼくはいつも、気に入った曲があればsiri検索してみる。行く先々で思わぬ名曲に出会うと、ハンター×ハンターの魅力的な登場人物の一人であるクロロさながら、自分の名盤プレイリストににそれらを追加していく。その気軽な独占にちょっとした優越感を覚える。

 

 ボカロ出身のn-bunaとシンガーのsuisから成るヨルシカの「だから音楽を辞めた」は、軽快なリズムと透き通る声が絶妙に絡み合ういい曲だった。そこに加えて、人間に対する諦めを基本的な調子とする歌詞が人々の心を掴むのだろうなどと雑な感想も抱いた。しかし、一番の引っかかりは、「だから音楽を辞めた」というタイトルだった。ここには何重かに暗示された、アーティストの表現に関するユーモアを感じてしまった。

 

 アーティストはメロディーに詩を乗せた曲を人々に聴かせて商売をするわけだけども、それは並大抵の行為ではない。稼ぐと同時に、本当に自分の表現したいことを聴衆に届けることのできるアーティストは一握りだろう。one ok rockはロックバンドがかつてのように流行らないアメリカで成功するために魂を売った瞬間があるし、エドシーランは4thアルバムリリースに向けてのコメントで、次のアルバムは自分のやりたい曲を作るから前ほどはヒットしないだろうという趣旨のコメントをしていたが、それは彼ほどのクラスのアーティストでさえ興行と表現との乖離を認めていることの証だろう。

 当然アーティストも商売だから、彼らは売れることと表現したいことの区別にはまったく自覚的だ。そしてこれは、世の中のインフルエンサーと呼ばれる人たち一般に言えることである。自らが道具として使うのが歌なのかお笑いなのか趣味なのかなどの違いがあるだけだ。

 

 現代では誰もが簡単に何かを表現できるし有名にもなれる。お金持ちにもなれるだろう。しかし同時に、人々が有名に、お金持ちになればなるほど魂を売らなければならない瞬間に直面するということでもある。それは大衆を相手にしなければならないからだ。メッセージは複雑であるほど大衆には届かない。逆に言えば、ヒトラーがいみじくも教えてくれたように、言葉は単純にかつ反復することで聴衆に浸透する。資本主義はすぐ隣に、ひっそりとたたずんでいる。

 

 「だから音楽を辞めた」はこう締め括られる。

 

僕だって信念があった

今じゃ塵みたいな想いだ

何度でも君を書いた

売れることこそがどうでもよかったんだ

本当だ 本当なんだ 昔はそうだった

だから僕は音楽を辞めた

 

 ヨルシカの歌には夏の終わりを歌った曲もあるが、彼らの曲の底の部分で流れているものは、ある種の喪失感と懐かしさである。かつての無垢な表現心がだんだんと失われていく。それはとても寂しいものだが、同時に、クスッと笑ってしまうような、爽快な感じも読み取らずにはいられない。これは自虐であろうか、はたまたぼくたちに向けられた嘲笑であろうか。

 

 ラーメンを食べ終わり、店を出た。うっすらと汗ばんだ額に、秋の始まりを感じさせる風が気持ちよかった。

 

 


ヨルシカ - だから僕は音楽を辞めた (Music Video)