ぼくはコロナワクチンは接種しません。

ぼくは昔から注射が嫌いである。

 

先端恐怖症とやらではないのだけど、針の鋭い先端が皮膚を貫き肉をえぐっていく感触、チクっと来て脳みその一番遠いところにまで届くような痛み、透明なチューブをぐんぐん進んでいくドス黒い血液。

 

ほんとうに、心の底から注射を憎む。

 

毎年毎年、頼んでもいない健康診断とやらで、どうして針を身体に刺されなければならないのか。そもそも、健康を測りに行って、どうして傷つけられて帰ってくるのだろう。薬局に売っているタバコ、賭博禁止の国のパチンコくらい笑えるパラドックスではないか。

 

そんなぼくだから、コロナワクチンの接種を拒否するのだ。なぜって、注射が嫌だから。

 

とはいえ、これは実は単純なようで理にかなっていると個人的に思っているのだ。

 

つまり、コロナワクチンは打っても打たなくても変わりないと思っている。

 

まず、①ワクチンで必ずコロナを予防できるわけではない

 

例えばインフルエンザワクチンにしてみても、ワクチンを打ったとして違う型のインフルエンザにかかったなんて笑い話はよく聞くだろう。それと同じで、コロナウイルスも刻々と変化を遂げており、変異株なるものも続々と出現しているらしい。

今さら言うまでもなく、ワクチンは絶対の防御ではない。

 

さらに、②ワクチンを打ったところでコロナ以降の生活が変わるわけではない

 

ぼくたちはしばらく、コロナで身につけたこの素晴らしい生活様式を手放せないだろう。

 

ここ一年とちょっとで、マスクをしよう、人とは距離を取ろう、手洗いうがいをして清潔でいよう、不要不急の外出はやめておこうといった新しい生活様式なる大層立派なライフスタイルは国民に浸透してきた。

 

旅行も飲み会もお祭りも、「別になくてもいいもの」に成り下がった。それらは不要不急でいつでも中止され得るものと認識されるに至った。

 

(ぼくは欲望に負けて博打に打って出る通常営業の人間たちに賭ける立場なので、得意の選択性痴呆症を存分に発揮し、コロナのことはあと数年経てば忘れてくれると信じているが、、、)

 

 

・・・

 

ぼくは日頃電子タバコを吸う。

 

電子タバコは壮大な人体実験の最中である。

 

サンプル数もまだ少なく、身体への害悪も正確なところはまだ分かっていない。

 

ところで、今回のコロナワクチンの治験に要した期間は10ヶ月程度だったそうである。

 

ぼくには、コロナワクチンと電子タバコはそう遠くはないことの話をしているように思えてならない。

 

最近、聞けば聞くほど、コロナワクチンはどうも怪しさに満ちていると感じる。

 

コロナワクチン接種後の死亡例が各国で相次いでいること、治験を担当した有名病院の理事長はモデルナ社重役を兼任し、8億円相当の株券を供与されていたこと。

 

内科医shamanseirenさんの「コロナストーリー」の通り、コロナワクチン接種事業を通じて管理社会化と人口削減を実現しようとしている何者かがいるとすれば、Netflixでドラマ化してほしいくらいには大変興味深い。

 

陰謀論といえば陰謀論だが、結局、歴史は勝者がつくる。壮大な計画の存在は常に、ネタとベタの狭間でうやむやにされてきた(ビルゲイツ!頼むぞ!笑)。

 

彼の言葉に倣えば、ぼくらは祈るしかない。

 

敵対者に?いや、10年後のぼくらに、だろう。

 

 

 

 

解説として

https://youtu.be/WEM2xoyz900

 

刺激として

https://ameblo.jp/shamanseiren/entry-12676339283.html

 

 

スナック

どんなに卑屈な態度をとってもきみはお見通しだろうね

 

そんなのただのポーズだって

 

そのくせ、一丁前にフェミニスト気取りなことを言ってみるんだ

 

「女性が活躍する社会なんて冗談じゃない。女性はいつだって輝いてきたじゃないか。」って

 

偉そうなことを言ってもすぐに自分に跳ね返ってくる時代だって知っていながら

 

だけど、ぼくも大概頭がおかしいけど、きみもどうかと思うよ

 

だって好きでもない人と平気でお話しできるんだもの

 

聡明なきみは、男の身体に身を預けなくても自立して生きていけるって分かってるだろうに

 

 

どうしてみんな自分に正直になれないんだろう?

 

最初は打ちひしがれて、思い悩んで、自分を顧みたりするのに、最後にはどうして安易な道を選んでしまうんだろう?

 

・・・

 

お互いに利用しあってるって、ぼくらは百も承知なんだ

 

喫煙者をバカにするけど、依存してるのはどっちなんだって言いたくもなるよ

 

人生なんて虚しいだけだって言ってみても露悪趣味って解釈されてしまう

 

みんな楽しいことはあるよって思ってるかもしれないけど、しょせんは脂っこいもので満たされてしまうんだ

 

きみは結婚式をするなら2人きりで式を挙げたいって言ってたけど、そんなの実現するわけはないんだよ

 

だって、顔を上げて周りを見てごらんよ

 

嫉妬と同調圧力だらけさ

 

地下室の手記』並みにくどくて嫌なやつなのは分かってるよ

 

でもこの感情は消えないんだ

 

どうしてみんな自分に正直になれないんだろう?

 

最初は打ちひしがれて、思い悩んで、自分を顧みたりするのに、最後にはどうして安易な道を選んでしまうんだろう?

 

・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆとりと詰め込みと

日曜夜9時に放送されているドラゴン桜2は傑作だ。

 

教育において常識を覆す提言をいくつもしている。

 

本日第4話を観たばかりだが、今回素晴らしかったのが

 

「詰め込みこそが教育だ」というフレーズである。

 

これには単純な勉強論を超えた、大人たちへのメッセージが込められているように思う。

 

 詰め込みと聞くとみなが「ゆとり」との対立図式で語ってしまう。

 

でも、本来「ゆとり教育」とは単線的な経済成長が終わりを迎えるであろう21世紀を見据えた議論だった。

 

今までの教育観では行き詰まりをしてしまうという危機感のもと、「生涯にわたって学習する、その一環が学校教育」※だという方針の教育改革が「ゆとり教育」のはずだった。

 

だが、結局は教科書に載せる問題を減らすとかそういう枝葉ばかりが議論されてしまい、「ゆとり世代」なるレッテルも生まれてしまった。

 

ぼくたちは今一度、本質を見なければならない。

 

義務教育なんて知識をパターン暗記する場所でいいんだ。

 

ここではあえて「詰め込み」という言葉を使う必要がない。

 

そもそも順番が逆なのだ。

 

知識がなければディスカッションもできない。アクティブラーニングとやらも多分できない。思考することができない。

 

 

大げさに言えば、指針がない時代だからこそ知識の暗記が求められる。

 

なぜだろうはその後についてくる。

 

義務教育を経ての大学での学びは、そもそもそういう順序が想定されているのではなかっただろうか。

 

 

 

ゆとり教育」構想が失敗し、教育用語が次々と乱立する昨今だからこそ、

 

「詰め込みこそが教育だ」と言語化されたことの意味は大きい。

 

 

改めて、ぼくたち大人は「ゆとり」と「詰め込み」の不毛な対立を反省しなければならない。

 

教育用語の独り歩きを阻止しなければならない。

 

迷惑するのは子どもたちだから。

 

 

 

 

 

※注

deguchi-hiroshi.com

 

 

 

ホンネとタテマエと、でもタテマエ

いつだったか、何もかも人間のエゴでせつめいがつくって親父が言ってた。

 

これほど便利な言葉はない。途方もないって感じだ。

 

子育ては最も人間のエゴが色濃く出る。

 

死にたいと思ってるやつなら一度は手を出す反出生主義とやらも同じことを言ってるのではないか。

 

ぼくの大好きなやつらには結婚して家庭をもつというベタな生き方は回避してほしい。

 

大人になるとなんでそんなに生き方が画一化してしまうんだろう?

 

別に人生の最後を老夫婦として過ごさなくてもいいだろう?

 

大学で馬鹿騒ぎしてた時のノリで、ヘテロ男性同士で急性アルコール中毒で死んだっていいわけだろう?

 

その選択肢がなくなっていくってことが成熟ってことなのかい?

 

あるいは、ちゃんと子育てをして家庭をもつってことが成熟ってことなのかい?

 

でも、この世に生を産み落とし、大人の提供する「ストーリー」を生きろって方がムリじゃないか?そもそもそんな「ストーリー」はあったのだろうか?

 

まあ、多分そんなことを言葉にしたり文章にすると、ヤバいやつって思われて敬遠されるだろうね。

 

ポストモダン的な態度って意味で言うとそんな反応も当然だね。

 

「通」な人と「語る人」

中学生の頃たまに行ってた蕎麦屋に『そばもん』というマンガが置いてあったのでよく読んでいた。

主人公は矢代稜という全国を旅して回る蕎麦職人。彼は江戸そば総本山の京橋・草庵五代目藤七郎の孫という肩書き。

話の展開はだいたい毎話同じで、矢代稜が全国を旅する中で蕎麦作りで悩む人やホンモノ気取りの勘違い君らと対峙し、彼の知識や確かな技術をもって問題解決していうという筋。

 

この間TSUTAYAに行ったら『そばもん』が偶然目に留まったのでさっそくレンタル。

ぼくの中での神回は、第4巻の「こんにゃく色のそば」でした。

ざっくり要約すると、ある男性雑誌のライター(以下、のび太くん・仮称)が蕎麦ブームに乗じてこんにゃく色のそばを取り上げて、香りもよくて野趣に富むとか店の雰囲気もモダンな空間でステキとかそれっぽいこと言ってたけど、矢代稜に実はそれは腐敗が進んだそばを誤魔化して出してるだけだし君たちライターはそういう味よりも店の雰囲気とかどうでもいいこと言っちゃってるよねと喝破されるというお話。

 

素晴らしいのは、矢代が情報化社会(とわざわざ言わない世の中ですが)の恐ろしさに警鐘を鳴らしていること。情報はいつの間にか人間の手を離れて一人歩きし、人間が情報に支配される。食に関しては特にそうであり、〜ブームとなればみな中身など見ずに、血を求めるサメのごとく一気呵成に飛びつき、動物的に消費していく。ライターなどの情報発信者側も、自分の価値判断基準がないため今ひとつの記事を書き、評価は客に丸投げ。そうすると、矢代の言う通り、悪貨は良貨を駆逐するがごとくいいお店も埋もれていく。

 

そうならないためのヒントも矢代は教えてくれている。彼はのび太くんに「通」になれと言う。「通」なんて聞くとウザい人を連想しちゃうけど、これにはもっと深い意味がある。彼によれば「通」とは「通る人」、「通う人」を経て「通じる人」になった者のことだ。

 

順番に説明すると、まずは色んなお店に通って食べてみること。これは「通る人」だ。まずは数をこなし、食べては飽きてを繰り返して自分好みの店を見つける。

何回行っても飽きないお店を見つけたらもう常連になっている。こうなれば「通う人」、常連さんだ。

そして最後は「通じる人」。つまり、そのお店でいつも食べる品の些細な変化に気づくようになることだ。変化に気づけるくらいになれば舌はその店の味を覚えている。そうしたら、他の店にも行ってみる。「通じる人」は自分の舌の価値判断基準を持っているから、違いがわかるようになっている。

矢代はこのような人を「通」なのだと言う。

 

「通」であれば、今日の味はいつもより薄いとかおいしくないとか違いが分かっている。でも「通」はそんなことは決して口にしない。矢代は言う。

 

「「通」はそんな事をいちいちあげつらったりしない。よくできている時だけ褒め、普段はすべてを受け入れ、むしろ野暮ったくしている。」

 

よく飲みの席で嫌悪されているのは「語る人」、矢代の言葉を借りれば「半可通」、知ったかぶりである。

 

ぼくたちが自らの価値判断基準を持てていたら、そしてまた、その物差しを懐にしまっておけるだけの余裕があったら。最近のSNS社会を見ているとそう思わずにはいられない。

 

ツイッターでプチ炎上した話をふと思い出す。あるラーメン屋での話。アーティストを名乗る客がラーメンを注文、麺には一切手をつけず、謎のメモを残して帰っていった。そこには味に対する講釈が書かれてある。店主はすぐさま写真に撮ってツイート。他の客が待ってる中であなたのような客に出すラーメンはないと言い放った。このツイートはけっこう反響があったみたい。

 

アーティストを名乗るものは見事に「語る人」となってしまった。その方には明確な価値判断基準があったのだろうか。あったとして、手紙を書くなんて律儀なことはせずに、野暮ったく振る舞う余裕はなかったのだろうか。

 

世は一億総有名人社会。SNSを使えばすぐに有名人になれる。そんな中でも、「通」な人は黙々と蕎麦を啜っているだろう。

「政治」が嫌いです。

ぼくは以前から「政治」が好きになれない。

 

いや、政局が好きになれないと言った方が適切だろう。

誰誰がどんな派閥で各省庁同士の力関係はどうかとか、選挙ではどういう候補者がいて支持層はどのあたりになるのかといった票読み...

 

ぼくらの周りには常日頃から政局が溢れている。ワイドショーで訳知り顔のコメンテーターが政治家の人物像をご満悦な表情で語るのも、元政治家が次の選挙予測をするのも、どれもこれも政局である。

4年ほど前に上映された『シンゴジラ』も政局をあつかった映画だ。ゴジラ出現という非常時というにはあまりに極限的な状況に、政治家と官僚はどのように対処するか。いかなる問題であっても上司にお伺いを立て決裁を経たうえで解決を図るという通常営業の官僚機構は、ゴジラのその異形性によってもはやコミカルですらあり、観客の失笑を誘ったのであろう。とてもすぐれた作品だったと思う。

 

政局は酒の肴にはなってもパンと水にはなってくれない。たしかに、政治家とディナーをして情報をとり、国民に正確な情報を伝えることの大事さはわかるが、国民の関心ごとはそこではない。国民は日々の生活を送ることで手一杯であり、政治家はあまりに国民から離れた存在である。

だが、こう言うと、国民に近い存在をキャッチフレーズにする政治家が出てくるが、そんなのは幻想にすぎない。やっぱりそういう政治家は信用ならない。

 

政局は醜いものだ。そこでどんな血なまぐさい戦いが繰り広げられているかを知りたければネットフリックスの『ハウスオブカード』を見てみるといい。主人公フランシス・アンダーウッドは大統領への野望を抱く冷酷無慈悲な野心家である。彼は権力を手に入れるためなら利用できるものはとことん利用し、頂点へと這い上がっていく。詳細はぜひネットフリックスでご覧いただきたいのだが、ホワイトハウスで展開されるのはまさしく戦争である。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵であり、ポストのためならばどんな汚い手でも使う。そこでは国民が顧みられることはない。

 

つまるところ、政局は本来嫌われて当然なのである。なぜなら、政局は政治家というプロの仕事だからだ。権力のためには手段を問わないのが政治家である。メディアも地元有権者もロビーストもコネクションも、権力を手に入れるためならばなんでも利用する。時には法律に触れることもするかもしれない。そういったダーティーさや実利主義的能力は政治家の腕の見せ所なのである。

 

丸山眞男は政治とは人間を現実に動かすことだと言った。政治にとっては人をコントロールし、社会を目的通りに動かすことが目標であり、政治の責任は結果責任でしかないのだと。

だからこそ、政治家は人をよく操れるように、人をよく理解する必要がある。政治家の人間観は性悪説だが、それは単に人間は悪だというのではなく、どう転ぶかわからない人間を取り扱い注意として警戒するという意味だというのである。政治家は自らの目標通りに人々を動かそうとする。そして、正確に言うならば、権力闘争もあくまでそのプロセスである。権力を行使できる立場にあれば、それだけ人民を掌握できるからだ。

 

昨今話題のポピュリズムもこの文脈で捉えていく必要がある。この現象のもとでは往々にして議会が軽視され、行政手続きが軽視される。だが、本来代議制は、素人の意見が政治に直接反映されないための歯止めだった。ヒートアップした国民の熱量を、代議士と議会がクールダウンさせ、落としどころを探るための知恵であった。ポピュリズムを抑制できるのは本来代議制民主主義なのである。ところが、昨今ではそういった政治の役割が見失われている。政治家は自らの矜持を投げ捨て、素人化している。国民の意見を一部は反映するが、全ては聞かず、妥協点を探るのが代議制民主主義の強みであり、政治家の実利主義が遺憾なく発揮される場であったはずだが、現代では政治家はどうもその逆を行こうとしている。代議制民主主義のもとでポピュリズムは水を得た魚のようであり、終わってみればそこかしこに荒野が広がっている。こういう事例をぼくたちはいくつも見てきた。もう政治家は国民をバカだと思ってくれない。国民は神様状態であり、国民の意見は残さず取り入れられなければならないらしい。

 

ぼくは最近、政治にどういう距離で接するべきかわからなくなっている。でも、少なくともぼくは政局も政治家も嫌いだし、嫌いだということは間違ってはいないと思っている。

 

 

 

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八

 

 

 

「だからぼくは音楽を辞めた」

 仕事終わりの20時くらい。スーツ姿のビジネスマンや大学生と思しきカップルなどが行き交う街頭。中央通りから少し入った、行きつけの煮干し系のラーメン屋の暖簾をくぐった。期間限定のラーメンをすすっていると、ヨルシカの「だから音楽を辞めた」という曲が耳に入ってきた。

 ぼくはいつも、気に入った曲があればsiri検索してみる。行く先々で思わぬ名曲に出会うと、ハンター×ハンターの魅力的な登場人物の一人であるクロロさながら、自分の名盤プレイリストにそれらを追加していく。その気軽な独占にちょっとした優越感を覚える。

 

 ボカロ出身のn-bunaとシンガーのsuisから成るヨルシカの「だから音楽を辞めた」は、軽快なリズムと透き通る声が絶妙に絡み合ういい曲だった。そこに加えて、人間に対する諦めを基本的な調子とする歌詞が人々の心を掴むのだろうなどと雑な感想も抱いた。しかし、一番の引っかかりは、「だから音楽を辞めた」というタイトルだった。ここには何重かに暗示された、アーティストの表現に関するユーモアを感じてしまった。

 

 アーティストはメロディーに詩を乗せた曲を人々に聴かせて商売をするわけだけども、それは並大抵の行為ではない。稼ぐと同時に、本当に自分の表現したいことを聴衆に届けることのできるアーティストは一握りだろう。one ok rockはロックバンドがかつてのように流行らないアメリカで成功するために魂を売った瞬間があるし、エドシーランは4thアルバムリリースに向けてのコメントで、次のアルバムは自分のやりたい曲を作るから前ほどはヒットしないだろうという趣旨のコメントをしていたが、それは彼ほどのクラスのアーティストでさえ興行と表現との乖離を認めていることの証だろう。

 当然アーティストも商売だから、彼らは売れることと表現したいことの区別にはまったく自覚的だ。そしてこれは、世の中のインフルエンサーと呼ばれる人たち一般に言えることである。自らが道具として使うのが歌なのかお笑いなのか趣味なのかなどの違いがあるだけだ。

 

 現代では誰もが簡単に何かを表現できるし有名にもなれる。お金持ちにもなれるだろう。しかし同時に、人々が有名に、お金持ちになればなるほど魂を売らなければならない瞬間に直面するということでもある。それは大衆を相手にしなければならないからだ。メッセージは複雑であるほど大衆には届かない。逆に言えば、ヒトラーがいみじくも教えてくれたように、言葉は単純にかつ反復することで聴衆に浸透する。資本主義はすぐ隣に、ひっそりとたたずんでいる。

 

 「だから音楽を辞めた」はこう締め括られる。

 

僕だって信念があった

今じゃ塵みたいな想いだ

何度でも君を書いた

売れることこそがどうでもよかったんだ

本当だ 本当なんだ 昔はそうだった

だから僕は音楽を辞めた

 

 ヨルシカの歌には夏の終わりを歌った曲もあるが、彼らの曲の底の部分で流れているものは、ある種の喪失感と懐かしさである。かつての無垢な表現心がだんだんと失われていく。それはとても寂しいものだが、同時に、クスッと笑ってしまうような、爽快な感じも読み取らずにはいられない。これは自虐であろうか、はたまたぼくたちに向けられた嘲笑であろうか。

 

 ラーメンを食べ終わり、店を出た。うっすらと汗ばんだ額に、秋の始まりを感じさせる風が気持ちよかった。

 

 


ヨルシカ - だから僕は音楽を辞めた (Music Video)