「通」な人と語る人

中学生の頃たまに行ってた蕎麦屋に『そばもん』というマンガが置いてあったのでよく読んでいた。

主人公は矢代稜という全国を旅して回る蕎麦職人。彼は江戸そば総本山の京橋・草庵五代目藤七郎の孫という肩書き。

話の展開はだいたい毎話同じで、矢代稜が全国を旅する中で蕎麦作りで悩む人やホンモノ気取りの勘違い君らと対峙し、彼の知識や確かな技術をもって問題解決していうという筋。

 

この間TSUTAYAに行ったら『そばもん』が偶然目に留まったのでさっそくレンタル。

ぼくの中での神回は、第4巻の「こんにゃく色のそば」でした。

ざっくり要約すると、ある男性雑誌のライター(以下、のび太くん・仮称)が蕎麦ブームに乗じてこんにゃく色のそばを取り上げて、香りもよくて野趣に富むとか店の雰囲気もモダンな空間でステキとかそれっぽいこと言ってたけど、矢代稜に実はそれは腐敗が進んだそばを誤魔化して出してるだけだし君たちライターはそういう味よりも店の雰囲気とかどうでもいいこと言っちゃってるよねと喝破されるというお話。

 

素晴らしいのは、矢代が情報化社会(とわざわざ言わない世の中ですが)の恐ろしさに警鐘を鳴らしていること。情報はいつの間にか人間の手を離れて一人歩きし、人間が情報に支配される。食に関しては特にそうであり、〜ブームとなればみな中身など見ずに、血を求めるサメのごとく一気呵成に飛びつき、動物的に消費していく。ライターなどの情報発信者側も、自分の価値判断基準がないため今ひとつの記事を書き、評価は客に丸投げ。そうすると、矢代の言う通り、悪貨は良貨を駆逐するがごとくいいお店も埋もれていく。

 

そうならないためのヒントも矢代は教えてくれている。彼はのび太くんに「通」になれと言う。「通」なんて聞くとウザい人を連想しちゃうけど、これにはもっと深い意味がある。彼によれば「通」とは通る人、通う人、そして通じる人という3段階になっているのだ。

要約すると、まずは色んなお店に通って食べてみること。まずは数をこなし、食べては飽きてを繰り返して自分好みの店を見つける。

何回行っても飽きないお店を見つけたらもう常連になっている。ここまでが通う人。

そして最後は通じる人。つまり、そのお店でいつも食べる品の些細な変化に気づくようになることだ。変化に気づけるくらいになれば舌はその店の味を覚えている。そうしたら、他の店にも行ってみる。通じる人は自分の舌の価値判断基準を持っているから、違いがわかるようになっている。

以上の過程が「通」の意味だ。

 

通人であれば、今日の味はいつもより薄いとかおいしくないとか違いが分かっている。でも通人はそんなことは決して口にしない。矢代は言う。「「通」はそんな事をいちいちあげつらったりしない。よくできている時だけ褒め、普段はすべてを受け入れ、むしろ野暮ったくしている。」

よく飲みの席で嫌悪されているのは「語る人」、矢代の言葉を借りれば「半可通」、知ったかぶりである。

 

ぼくたちが自分好みの価値判断基準を持てていたら、そしてまた、その物差しを懐にしまっておけるだけの余裕があったら。最近のSNS社会を見ているとそう思わずにはいられない。

 

ツイッターでプチ炎上した話をふと思い出す。あるラーメン屋での話。アーティストを名乗る客がラーメンを注文、麺には一切手をつけず、謎のメモを残して帰っていった。そこには味に対する講釈が書かれてある。店主はすぐさま写真に撮ってツイート。他の客が待ってる中であなたのような客に出すラーメンはないと。このツイートはけっこう「反響」があったみたい。

 

アーティストを名乗るものは見事に「語る人」となってしまった。その方には明確な価値判断基準があったのだろうか。あったとして、手紙を書くなんて律儀なことはせずに、野暮ったく振る舞う余裕はなかったのだろうか。

 

世は一億総有名人社会。SNSを使えばすぐに有名人になれる。そんな中でも「通」な人は黙々と蕎麦を啜っているだろう。

 

 

 

「政治」が嫌いです。

ぼくは以前から「政治」が好きになれない。

 

いや、政局が好きになれないと言った方が適切だろう。

誰誰がどんな派閥で各省庁同士の力関係はどうかとか、選挙ではどういう候補者がいて支持層はどのあたりになるのかといった票読み...

 

ぼくらの周りには常日頃から政局が溢れている。ワイドショーで訳知り顔のコメンテーターが政治家の人物像をご満悦な表情で語るのも、元政治家が次の選挙予測をするのも、どれもこれも政局である。

4年ほど前に上映された『シンゴジラ』も政局をあつかった映画だ。ゴジラ出現という非常時というにはあまりに極限的な状況に、政治家と官僚はどのように対処するか。いかなる問題であっても上司にお伺いを立て決裁を経たうえで解決を図るという通常営業の官僚機構は、ゴジラのその異形性によってもはやコミカルですらあり、観客の失笑を誘ったのであろう。とてもすぐれた作品だったと思う。

 

政局は酒の肴にはなってもパンと水にはなってくれない。たしかに、政治家とディナーをして情報をとり、国民に正確な情報を伝えることの大事さはわかるが、国民の関心ごとはそこではない。国民は日々の生活を送ることで手一杯であり、政治家はあまりに国民から離れた存在である。

だが、こう言うと、国民に近い存在をキャッチフレーズにする政治家が出てくるが、そんなのは幻想にすぎない。やっぱりそういう政治家は信用ならない。

 

政局は醜いものだ。そこでどんな血なまぐさい戦いが繰り広げられているかを知りたければネットフリックスの『ハウスオブカード』を見てみるといい。主人公フランシス・アンダーウッドは大統領への野望を抱く冷酷無慈悲な野心家である。彼は権力を手に入れるためなら利用できるものはとことん利用し、頂点へと這い上がっていく。詳細はぜひネットフリックスでご覧いただきたいのだが、ホワイトハウスで展開されるのはまさしく戦争である。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵であり、ポストのためならばどんな汚い手でも使う。そこでは国民が顧みられることはない。

 

つまるところ、政局は本来嫌われて当然なのである。なぜなら、政局は政治家というプロの仕事だからだ。権力のためには手段を問わないのが政治家である。メディアも地元有権者もロビーストもコネクションも、権力を手に入れるためならばなんでも利用する。時には法律に触れることもするかもしれない。そういったダーティーさや実利主義的能力は政治家の腕の見せ所なのである。

 

丸山眞男は政治とは人間を現実に動かすことだと言った。政治にとっては人をコントロールし、社会を目的通りに動かすことが目標であり、政治の責任は結果責任でしかないのだと。

だからこそ、政治家は人をよく操れるように、人をよく理解する必要がある。政治家の人間観は性悪説だが、それは単に人間は悪だというのではなく、どう転ぶかわからない人間を取り扱い注意として警戒するという意味だというのである。政治家は自らの目標通りに人々を動かそうとする。そして、正確に言うならば、権力闘争もあくまでそのプロセスである。権力を行使できる立場にあれば、それだけ人民を掌握できるからだ。

 

昨今話題のポピュリズムもこの文脈で捉えていく必要がある。この現象のもとでは往々にして議会が軽視され、行政手続きが軽視される。だが、本来代議制は、素人の意見が政治に直接反映されないための歯止めだった。ヒートアップした国民の熱量を、代議士と議会がクールダウンさせ、落としどころを探るための知恵であった。ポピュリズムを抑制できるのは本来代議制民主主義なのである。ところが、昨今ではそういった政治の役割が見失われている。政治家は自らの矜持を投げ捨て、素人化している。国民の意見を一部は反映するが、全ては聞かず、妥協点を探るのが代議制民主主義の強みであり、政治家の実利主義が遺憾なく発揮される場であったはずだが、現代では政治家はどうもその逆を行こうとしている。代議制民主主義のもとでポピュリズムは水を得た魚のようであり、終わってみればそこかしこに荒野が広がっている。こういう事例をぼくたちはいくつも見てきた。もう政治家は国民をバカだと思ってくれない。国民は神様状態であり、国民の意見は残さず取り入れられなければならないらしい。

 

ぼくは最近、政治にどういう距離で接するべきかわからなくなっている。でも、少なくともぼくは政局も政治家も嫌いだし、嫌いだということは間違ってはいないと思っている。

 

 

 

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八

 

 

 

「だからぼくは音楽を辞めた」

 仕事終わりの20時くらい。スーツ姿のビジネスマンや大学生と思しきカップルなどが雑踏する街頭。中央通りから少し入った、行きつけの煮干し系のラーメン屋の暖簾をくぐった。期間限定のラーメンをすすっていると、ヨルシカの「だから音楽を辞めた」という曲が耳に入ってきた。

 ぼくはいつも、気に入った曲があればsiri検索してみる。行く先々で思わぬ名曲に出会うと、ハンター×ハンターの魅力的な登場人物の一人であるクロロさながら、自分の名盤プレイリストににそれらを追加していく。その気軽な独占にちょっとした優越感を覚える。

 

 ボカロ出身のn-bunaとシンガーのsuisから成るヨルシカの「だから音楽を辞めた」は、軽快なリズムと透き通る声が絶妙に絡み合ういい曲だった。そこに加えて、人間に対する諦めを基本的な調子とする歌詞が人々の心を掴むのだろうなどと雑な感想も抱いた。しかし、一番の引っかかりは、「だから音楽を辞めた」というタイトルだった。ここには何重かに暗示された、アーティストの表現に関するユーモアを感じてしまった。

 

 アーティストはメロディーに詩を乗せた曲を人々に聴かせて商売をするわけだけども、それは並大抵の行為ではない。稼ぐと同時に、本当に自分の表現したいことを聴衆に届けることのできるアーティストは一握りだろう。one ok rockはロックバンドがかつてのように流行らないアメリカで成功するために魂を売った瞬間があるし、エドシーランは4thアルバムリリースに向けてのコメントで、次のアルバムは自分のやりたい曲を作るから前ほどはヒットしないだろうという趣旨のコメントをしていたが、それは彼ほどのクラスのアーティストでさえ興行と表現との乖離を認めていることの証だろう。

 当然アーティストも商売だから、彼らは売れることと表現したいことの区別にはまったく自覚的だ。そしてこれは、世の中のインフルエンサーと呼ばれる人たち一般に言えることである。自らが道具として使うのが歌なのかお笑いなのか趣味なのかなどの違いがあるだけだ。

 

 現代では誰もが簡単に何かを表現できるし有名にもなれる。お金持ちにもなれるだろう。しかし同時に、人々が有名に、お金持ちになればなるほど魂を売らなければならない瞬間に直面するということでもある。それは大衆を相手にしなければならないからだ。メッセージは複雑であるほど大衆には届かない。逆に言えば、ヒトラーがいみじくも教えてくれたように、言葉は単純にかつ反復することで聴衆に浸透する。資本主義はすぐ隣に、ひっそりとたたずんでいる。

 

 「だから音楽を辞めた」はこう締め括られる。

 

僕だって信念があった

今じゃ塵みたいな想いだ

何度でも君を書いた

売れることこそがどうでもよかったんだ

本当だ 本当なんだ 昔はそうだった

だから僕は音楽を辞めた

 

 ヨルシカの歌には夏の終わりを歌った曲もあるが、彼らの曲の底の部分で流れているものは、ある種の喪失感と懐かしさである。かつての無垢な表現心がだんだんと失われていく。それはとても寂しいものだが、同時に、クスッと笑ってしまうような、爽快な感じも読み取らずにはいられない。これは自虐であろうか、はたまたぼくたちに向けられた嘲笑であろうか。

 

 ラーメンを食べ終わり、店を出た。うっすらと汗ばんだ額に、秋の始まりを感じさせる風が気持ちよかった。

 

 


ヨルシカ - だから僕は音楽を辞めた (Music Video)

コロナワールド3

 コロナワールド第3弾。コロナは一見すると普通の風邪の症状らしい。ところで風邪といえば、中学の時現代文の問題集でこんなステキな文章を読んだことがある。以下抜粋。

 

正月早々、風邪で寝込んだ。けれども、風邪のおかげで熱はあっても生命の危険はなく、忘我に近い恍惚にはいり、世間構わず昼間から寝ていられる。それは一種のスポーツの一形式でもあり、宇宙飛行士の宇宙遊泳でもある。何たる健康状態であろうか!

 河上徹太郎の「風邪熱談義」である(要約)。

 

「えっ」と思わずにはいられない、パラドックス満点の一節を興味深く読んでいくと、彼はさらにこうも言っている。

 

 「だから右の状態※は、正しくレジャーというものの理想的な状態なのである。勤め人がたまの休日を人ごみに揉まれて郊外の遊園地あたりまで子供とあわただしい一日を過ごすみじめさはよく漫画のタネになっているが、一方われわれはお小使いをしわ寄せすれば、昔なら貴族豪遊の独占であった旅行やホテル生活を味わうことができる。しかしそこには歪められた優越感・虚栄心以外にどんな陶酔があろうか。そしてまた、今では幽邃な古社寺の門前には観光バスが列び、名代の食い物屋が日に数百千の客を賄わねばならないとなれば、味はいやでも規格化せざるを得ない。つまり、万人がエリートなのであって、優越感というものがあまり快楽のうえでものを言わなくなった時代である。」

※風邪で寝込んでいる状態のこと。

 

そして、極めつけはこうである。

 あくせくレジャーを求めて、どれだけ心身ののびやかさと解放感が得られるのか?実は勤労生活をちょうど裏返しにした時間の縄の目を、ノルマを達成するために勤勉に辿っているだけなのである。 」

 

というわけで、今回はレジャーの話。コロナでみんな旅行に行きづらくなり、おうち時間が増えている今だからこそ、この論考からは多くの学びがある。

 

「風邪熱談義」は昭和44年に書かれた文章らしいけど、こんなにも生々しく、かつフレッシュに現代人に問いかけている文章をぼくは寡聞にして知らない。というか、ぼくには、コロナワールドを悲観するなという熱いエールに聞こえてならないのだ。

 

ぼくたちのレジャーは健全だろうか?もちろん、言うまでもなく、時代は変わっていて、ぼくたちのレジャーはお金がなくても達成できるものになっている。YouTubeもインスタもフェイスブックも、ネット接続環境があればそこそこ楽しめるものになっている。けれども、そこで行われている内実は昔とそう変わっていない。それは、明日も仕事かと思いながら仕事の空き時間をただ単に消費するための暇つぶしなのであり、まさに「勤労生活をちょうど裏返しにした時間の縄の目」を規則正しく辿っているだけだ。ここにひとつ現代的な特徴があるとすれば、レジャーはいまや動物的な快楽となっており、ぼくたちのレジャーはインスタントラーメンさながら3分で満たされる視覚的な中毒となっている。得をするのは画面の向こう側にいるよくわからないパフォーマーなのであって、企業案件やらアフィリエイトやらで巨万の富を得る彼らは、中毒という比喩に則れば薬の売人である。そうして、ぼくたちのレジャーはますます規格化に拍車がかかり、似たようなコンテンツを消費するだけの毎日となっている。

 

もうぼくたちはこの時間感覚に慣れすぎてしまっている。けれど、ぼくたちの時間感覚が短くなれば短くなるほど、ぼくたちのレジャーはすべて似たようなものになり、ノルマ化していく。2時間の映画鑑賞より3分のYouTube閲覧を選ぶ身体になってしまったぼくたちはどうしたらいいだろう。

 

多分ぼくらは、いったん手を動かすことをしないとこの悪循環から逃れられない。ジャーナリストの堀潤はAbemaTVでわれわれは火をおこすこともできなくなってしまったといっていたが、まさにぼくたちは手のひらの上で何かを創造しようとしたほうがいい。これはなんでも一から作れという意味ではなく、めんどくさいけどちょっと楽しいことを日常に持ち込むということだ。ぼくたちの時間感覚を長くするためにできるかぎり手を動かしたほうがいいと思うのだ。たとえばこのブログも、本来は紙とエンピツがあれば十分に書ける。知性とはきっとそういうものをいうのでしょう。

 

だからレジャーの回復とは、身体性の問題だと思う。コンテンツを見て欲望を満たすだけではなくて、そこから自分の手でやってみること。どんなにみっともなくてもいい。アピールしなくていい。料理も文筆も旅行も、まずは体を動かすことから始まると思う。そうやって自分の時間感覚を長くしていかないと、ぼくたちの時間は短くなる一方だからだ。

 

河上徹太郎がこのコロナワールドで生きていたら、きっと喜んでいただろう。現代のレジャーはクソほどつまらなくなっており、そんなレジャーに勤しむくらいなら、風邪で寝込んでいた方が数倍マシだからである。彼ならそんな風に、現代の病理をぶった切ってくれるだろう。

 

 

てなわけで、みんなコロナワールドを機に、得意料理のひとつでもあみだしてみようよ。だってみんな暇でしょ?

 

 

有愁日記 (1970年)

有愁日記 (1970年)

 

 

 

プロメテウス

なんか、あれだよね、いい文章書こうとしてるよね。

違うんだよね、自分が納得できる叫びなんだよな、書きたいのは。

エルトンジョンのyour songみたいなさ。

なんも難しいこと言わなくてもいいのよね。

ツイッターで書く文章っぽいって?そうよね。呟きだよ。

ハイボール飲みながらしか書けないかもね。

地下室の手記みたいな感じ?自問自答を繰り返して真実に行くぜ!みたいなさ。

もっとダイレクトに繋がる文章を書いてみたいよね。

明日の朝これ見て嫌気さすかもね。でも創造したいんだよね。

セリアで買った黒いプラスチックのよくわからんGREATって書いてある皿の上にアイガモのスモーク乗っけて食べてるよ。もう食い終わったけど。

もし文章を書くのが続いたとして、いい感じのが書けるのは数十年先かもね。

でもその時まで生きてるかなんてわかんないしね。

グロー愛煙家のおれだけど、密かに電子タバコには期待してるんだ。だって、今電子タバコは壮大な人体実験の過程だろ?

いいかもね。なんかね。グロー に貼ったヒステリックミニちゃんがウキウキしてるよ。

朝起きたらどっか違う惑星にいて、宇宙船の中から無機質な船内を見ながらグロー吸いたい。

 

この日本のどこかにいるクレーマーへ届けるポエム

先日窓口業務で久々にお客さんにブチ切れられた。

「どうしてお金が支払われないの?」「もっと柔軟に対応してよ!」

けっこう傷つき、狼狽した。わかる。君は正しいだろう。でもね、おれは君にこそ届けたい。巷のラブソングと同じ程度には。

 

君のその言動は時に人を絶望に追いやることもあるんだって。

 

君のその言葉が君の全人格を決定してしまうよ。君が明日死んだらそれが君の最後の言葉になってしまうよ。

でも君はほんとはちょっぴり優しかったりするんだろう?もしかしたら、何かで傷つき、やるせなさを感じているかもしれないね。

 

君には誰か手を差し伸べてくれる人が必要なんだよな。でもいないんだよな。君の怒りを受け止めてくれる人がいないんだよな。だから公務員だったら何を言っても聞いてくれるからってキレたんだよな。

今君にDesperadoを聴かせてやりたいよ。そんな曲知らないって?いいさ。それなら聴かなくてもいいから想像してくれ。そのフェンスから降りてきてこっちに来なよ。愛してくれる人はいるさ。

 

 

人はいつも後悔する。あの時なんであんなことを言っちゃったんだろうって。わかるよ。わかる。おれもそうさ。おんなじだよ。

 

ちなみにおれはそんなキレられたくらいで絶望はしない。ツイッターで消費するくらいには余裕がある。でもやっぱり君に届けたかったんだ。聴いてるかな。聴いててくれると嬉しい。もしこれを聴いて君が誰かに優しくしてくれるなら、おれも君も世界に貢献してるよな。

 

ポエムでした。

 


Desperado by Eagles with lyrics

コロナワールド2

昨日の金曜日は仕事が忙しかったから、遅めに起きて迎える朝は気持ちいい。まだ少し、昨日飲んだハイボールの酔いのせいで気怠さはあるけれど。

窓を少し開けて、外の空気を入れる。オレンジジュースを一杯飲んで、グローを吸いながらひと息つく。

やっぱり電子タバコだと、文章にしたとき雰囲気出ないね(笑)

 

 

朝はLINEニュースとかサッカー情報サイトのGoal.comやらTwitterを巡回するのが日課なのだけど、今日も「7月のコロナ国内感染者数が1万7000人」という見出しを見てしまった。

嫌でもコロナワールドに引き戻される。気持ちのいい休日の朝が台無しだ。

 

そして平日もコロナワールドに毒されている。

ぼくは公務員で窓口業務をしてるけど、この間窓口でお客さんがこんなことを言ってた。

 

「今どきマスクしてない奴がいるんだねえ。常識知らずだ。人にうつしたりしたらとか考えないのかな。」

 

こんなところにも、山本七平の言う日本教の一端が垣間見れる。これほど日本の良さと悪さを示すセリフはないと思う。

 

社会学者の山本七平は、無宗教だと言われていた日本が実は日本教という名の宗教を信仰していると喝破した。

 

日本人は「人」を最上位に位置付けする。欧米では神が人の上位に来るが、日本ではそうではない。常に人目を気にして、こんなことをしたら人はどう思うだろうかと常に顔色を窺いながら行動する。だから日本人は、逆説的に、自己を批判的に見る習慣がない。神への信仰があれば、常に神はどう見ているだろうかと立ち止まり、その対話が自分の言動を反省する機会となる。一方、日本人は自分を見つめる第三者的視点をもたない。他人の目を気にして行動するのは、自分の言動を注意深くチェックすることとは違う。それは自分を捨てて他人に媚びをうることでしかない。

日本人がやたら世間や常識やらにうるさいのは、人を行為規範の基準としていることを意味する。不倫報道がやたらバズるのも日本教のメソッドを考えれば当然である。

何よりもまず人が最上の規範となる。これが日本教の教義である。

 

 

常識知らず。その常識とは何を指すのだろう。太宰治が言ってた気がするけど、それは他人のこと。つまり人だ。

 

コロナワールド渦で、日本教がいっそう強くなっていく。

 

それは日本人のマスク着用率の異常な高さによる(?)死亡率の奇跡的な低さとして。一方で、自粛警察に代表されるような社会的な圧力として。

 

日本教の恐ろしいところは、一見他人思いに見えるが実は世間を内面化した行動規範がみるみる増殖していくところにある。これが俗に言う「空気」というやつの正体だ。

 

第二次世界大戦時の日本が国民の支持のもと戦争に突入していったのは手垢のついた事例だが、このコロナワールドでも似たような「空気」が広がってはいまいか。

 

そうしてぼくたちは、いつの時代も自分の軸を作れないでいる。自分の意思や行動を決めることができずにいる。

 

だからぼくたちは、自分を守るためにこそマスクをする方がいいと思うのです。

 

 

"So before I save someone else, I've got to save myself"

だから他の誰かを救う前に 僕は自分を救うんだ

"And before I blame someone else, I've got to save myself"
他の誰かを責めてしまう前に 僕は自分を救うんだ

        Ed Sheeran  『Save Myself』

 

 

 

歌詞の引用→https://www.yogakuhack.com/entry/savemyself_edsheeran

 

 山本七平の引用 ↓