腐らないおにぎり

 人口100万人の都市から人口3万人の田舎に転勤で引っ越してきてからは、日ごろから自炊をするようになった。都会暮らしで散財しすぎたぼくは、ここで一息入れる意味でも貯金に励んでみようと思ったのである。

 前の家はキッチンの調理スペースがまな板1枚分しかなかったこともあって、仕事から帰ってきても料理をやる気が起きなかった。しかも都会は飲食店が多い。仕事が終わり、ビルを出ると、目に入ってくる店先のオレンジの光は大いにぼくを誘惑した。ひどいときは週1回は食べに通っていた煮干しラーメンは、まさに罪な味であった。それと同時に出費もばかにならなかった。外食すると1回で800円は使ってしまうから、お金がたまらないのも当然であった。外食しない時でも、自宅から徒歩10秒の距離にコンビニがあったから事情は同じであった。

 都会暮らしに慣れてしまっていたぼくにとっては、転勤は思わぬ形で生活を変えるいいきっかけとなった。

 実際に自炊をしてみると、当初の想定より経済的であったし、何より、自分で作るご飯は想像以上に美味しかった。

 よく自炊するより出来合いのものを買った方が安いと言う人がいるが、おそらくその人は実際にスーパーで食材を買って家で調理をしたことの無い人だ。たとえば、吉野家で牛丼並盛一杯は税込み426円かかるようだが、自分の家で作るとしたら同じ値段で倍量は食べられるかもしれない。牛肉200gと玉ねぎ1個、味付けは家庭にもよるが、醤油、酒、みりん、砂糖で十分美味しい牛丼が2~3人前は作ることができるだろう。

 しかも不思議なことに、自分で作った料理の味に慣れると、チェーン店の味や市販のものの味がそこまで美味しいと感じなくなる。たしかにお店の味や出来合いの食品は美味しいとは思うのだが、どこか「おおげさ」な感じがする。それに対して、自分で作ったおかずの味はどこかほんのりと優しい味わいがある。ぼくはゴーヤチャンプルーが好きなのだが、醤油と顆粒だしというシンプルな味付けだけでここまで美味しいと思えるのかと感動したほどだ。

 市販の食品を食べて「おおげさ」な味だと感じるのも無理はないかもしれない。なぜなら、市販の味は実に多くの添加物によって味が加工されているからだ。

 ぼくは一度恐ろしい経験をしたことがある。こちらに転勤する前の時の話だが、出勤前にコンビニでおにぎりを買ったが食べるのを忘れてリュックの中に1週間放置してしまったことがあった。そんなこととはつゆ知らず、探し物をしていてリュックを漁るとなにやら固い物体が手に触れた。それはなんと1週間前のコンビニのおにぎりであった。食べ物は時がたてば腐るのが普通なのに、そのコンビニおにぎりは腐らず、ただただカチカチに固まっていたのである。

 コンビニおにぎりには何が入っているのか、成分表示を見て買う人はほとんどいないだろう。試しに、先ほど買い物へ行ったついでにセブンイレブンで新商品のサーモンハラスおむすびを買ってみた。米と焼鮭を食すだけなのに、原材料名には10種類もの項目が記載され、増粘剤、pH調整剤、調味料(アミノ酸等)、グリシン酸化防止剤(チャ抽出物)、カラメル色素、甘味料(甘草)、(一部に小麦・さけ・さば・大豆を含む)と7種類の添加物が加工されている。それら添加物のどれもがその文字をみただけでは何が何だかさっぱりわからないものばかりである。けれどもきっとそういった添加物のおかげで、おにぎりは腐らなかったのである。

 ぼくたちは日ごろから、驚くほどに、自分がいったい何を口にしているのか意識していない。こんなにも健康が重要視され、食は健康に直結するにもかかわらず。

 

・・・

 

 つい最近読んで感銘をうけた本に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』というのがある。著者のキャスリーン・フリンは世界的に有名なフランスの料理学校ル・コルドン・ブルーを卒業した遅咲きの料理人でフードライターである。彼女はある日、24時間営業の大型スーパーでカートいっぱいに加工食品や冷凍食品を積み上げている女性に出会い、勇気を出して声をかける。こんなにも食材の選択肢のあるスーパーで彼女はなぜ出来合いのものを買うのか。「箱入りの食品は失敗しないから。」その一言を聴き、料理人として、またライターとしての彼女は料理ができないと思い込む人々の意識を変えたいと、料理教室を開くことを決意する。10人の参加者で始まった料理教室は、紆余曲折がありながらも、確実に参加者の料理に対する考え方を変えていった。包丁の握り方に始まり、鶏肉は丸鶏からさばくこと、パスタソースもパンも自分で作れること。テイスティングを通して、普通に売っている塩でも種類によって味が全く異なるものであること。固定観念をとりさり、自ら能動的に調理に取り組む姿勢は、料理をできないと思い込む自分を変えるばかりか、各々の人生を豊かにしていくきっかけにもなっていく。

 キャスリーン・フリンは、調理という営みを通じて、現代社会が見まいとしてきた多くのことを指摘する。

 ぼくたちは長い間、料理は難しいものだと思い込まされきた。職場などで自炊をしていると言うと「すごいね!」と褒められる社会では無理もない。あるいはぼくたちは、企業のマーケターの仕掛けるテレビCMなどの認知戦略によって、簡単な炒め物やパスタソースさえも自分では決して作れないのだと刷り込まれているのかもしれない。*1だから料理とは、とても時間がかかり、難易度が高くて、時間的余裕がなければとてもじゃないが取り組めないものとみなされている(健康を気にする人は多くの時間とお金をジム通いやヨガ教室などに費やすというのに)。よって、常に時間の無い現代社会では必然、出来合いのものは重宝される。たとえ自炊をするよりコストがかかるにしてもである。

 結果として、現代では、料理は見学するものと見なされるようになったと言えるだろう。*2YouTubeで人気料理店での調理映像を観たときに、実際にその店に足を運ぶ前に、「これなら自分でも出来る」と思い、行動に移す人間がいったいどれだけいるだろう。

 ぼくたちは無意識に企業側の言いなりになって食品を買い続けるべきではない。彼らの目的は、乱暴にかつ現実的に言えば、脂肪・塩・砂糖の黄金比を消費者に味わせることで脳内のドーパミン放出を促し、加工食品中毒者にさせることなのである。*3そしてそこには当然、栄養という概念は無い。*4でなければ、市場に流通するおにぎりが消費期限を過ぎても腐らないという狂気を説明できないからだ。

 調理という営みが徐々に家庭から消えて行き、多くの人がコンビニや外食産業や出来合いの食品に頼るようになってきた。その結果どういうことが起きているか。現代人は自分の口に入れるものをただただ提供されるがままに食す。そこには栄養という発想は一切なく、満腹中枢を満たせればそれでいい。

 けれども、何を口に入れているのかについて無自覚のままでは、身体の悩みや問題についての解決策もなかなか見出すことができない。特に分かりやすいのは肥満という現代病についてだろう。ぼくは自炊を始めてみて数ヶ月で、以前と食べる量は変わらないのに体型を維持できているし、むしろほんの少し瘦せたかもしれないと感じている。要因としては飲酒量が減ったことなども考えられるが、最も大きい要因はコンビニ飯をほとんど食べなくなったことにあると思っている。同書の中ではイギリス人シェフのジェイミー・オリバー氏の自炊をすればするほど痩せるという主張も紹介されている。ぼく自身は自らの身体で実感しているのでおそらく彼の意見は正しいと思う。たしかに外食産業やコンビニ飯に依存する社会で肥満が増加するのは必然的かもしれない。その理由は、外食や出来合いの食品の中に単純にカロリーの高いものが多いこともあるかもしれないが、今のところ最も説得力のある原因として、それらの中には糖のエネルギー代謝を低下させる果糖ブドウ糖液糖などの原材料が多く添加されているからだとふんでいる。*5さらには先に見たような、食品保存期限を長引かせる様々な添加物も肥満に加担しているかもしれない。いずれにせよ、調理場から離れ、自らの食に関心を持たなくなった現代人は、かつてより多くの身体的問題を抱えるようになったと言えるのではないか。

 

・・・

 

 思えば、調理という行為は、ヒューマニズムに埋もれた現代人にとっては生き物との接点を保つ唯一の道であると言っても言い過ぎではない。ぼくたちがどこまでいっても有機体でしかないという実感は、生き物を捌き、殺し、焼いたり煮たりしては摂取し、排泄することを通じて得られる。その入り口として調理という営みがあるのだ。哲学者の鷲田清一は、調理という場すらファーストフードやコンビニに外部化してしまう現代社会に、次のように警鐘を鳴らす。

誕生・病気・死は、人間が自然の存在、有限な存在であることがもっともあからさまに突きつけられる場面である。その重要なシーンが、病院など非日常的な空間で展開されるようになり、家庭という日常生活の場から遊離してしまった。いや、隠されてしまったといったほうがいい。そういう意味で、調理は、自然との接点として家庭内に残されていた最後のいとなみだったのである。この調理過程までが外部化するというのは、わたしたち人間の現実感覚にとって、何か決定的な変化を意味するようにおもえてならない。*6

出産も死も病院でしか見られることのない世の中では、調理という場は生き死にに人間が関わることができる貴重な場であった。自分が生きるために他の生命を殺すこと、その命をいただき、自分の体が作られていくこと、そうして存在する自分も有限な存在であり、壊れもすれば消滅もすること*7

 抽象的な話をしているように感じられただろうか。そう感じるのも無理はないのかもしれない。もう既にぼくたちは、調理の場から遠ざけられたというまさにその実績のおかげで、自分が口に入れる食べ物によって自らの血と肉が作られていくという有機的な感覚を忘れている。その意味で、ヨーロッパ発祥のスローフード運動とは、食における生産の場から調理の場へと至る道程を透明化することによって、いわば食の消費者主権を取り戻す運動であったのである。

 鷲田が言うような、調理の場の外部化がもたらす人間の現実感覚の決定的変化とは何を意味するのか。彼が言いたいのは有機体としての実感の喪失、ということなのだろうが、ぼくにとってはそれ以上の、もっと不気味なものに感じられる。それは失われると同時に何かが侵食してくる感覚、といってもいい。それはまさに、カチカチに固まったコンビニおにぎりを見た時の不気味さにとても近いものだ。日頃健康には無頓着であったぼくが食品に入っている添加物を気にするようになってしまったのは、別に健康意識が高まったからではなく、食べ物の寿命を延ばせる程の強烈な化学薬品を日頃から口にしていることに恐怖を抱いたからである。その恐怖心は理性的認識ではなく、ぼくのゲノムに刻まれた本能の発する警報だったろう。硬質化したおにぎりを見てぼくは、震災後の、大気中の見えない放射能ガイガーカウンターで可視化されていく恐ろしさを追体験したような気がするのである。

 消費期限が過ぎても腐敗しない食べ物をぼくたちが無意識に、美味しいものとして食べているという事実。ここには何か、自然の摂理への反逆、人類の尊大さが垣間見える。そしてそのしっぺ返しは、まるでゴジラの出現のように、既にぼくたちに何らかの警告を発していないのだろうか。この50年程でタバコを吸う人間はほとんどいなくなったというのに、未だに日本ではガンにかかる人間が2人に1人であり、ガンで死ぬ人間は3人に1人である。あるいは、日本では夫婦の5〜6組に1組は不妊治療の経験がある。そして健康長寿を至上命題とする現代人にとっては不都合なことに、国内の令和4年1~3月の死亡者数は前年同期比で3万8630人増加した。これらの事象が、日頃から摂取する化学薬品などが原因となって引き起こされているのか、真実は永久に闇の中である。ただただぼくは、現代に生きる限りは素人には実態を知る術もないような化学薬品に曝露され続ける宿命に対して、半ばブレーキのきかない列車に乗ったような気分で、絶望し、しかしどこか醒めてもいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』キャスリーン・フリン、きこ書房、2017年、36頁。

*2:同上、33頁。

*3:同上、228頁

*4:同上、35頁。

*5:『カロリー制限は本質的に意味がない〜食事法シリーズ』 | Dr.崎谷ブログ (paleo.or.jp)

*6:『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』鷲田清一、株式会社講談社、2011年、130~131頁。

*7:同上、131頁。

無料はぼくたちの心を豊かにするのか

 注意深くぼくたちの生活に目を配れば、想像以上に日々の暮らしが無料によって彩られていることが分かる。ためしに今、みんなの手元にあるスマホを起動してみれば、検索サイト、メッセンジャーアプリ、SNS、動画閲覧サービスなど、数多くの娯楽が無料で提供されていることが再認識できることだろう。

 映画も書籍も、ぶっきらぼうに言うなら「友達」も、奢侈品ならば無料で手に入るようになったこの時代で、特にみんなにとっての暇つぶしとしてYouTubeは無視できない存在となった。アクセス回数は世界第2位、ユーザー数20億人以上をほこるこの動画プラットフォームは、従来メディアと同等もしくはそれ以上の影響力をもつようになった。将来的にはユーチューバーが言論空間を支配する時代が来てもおかしくはないと思わせるほどである。

 今さら言うまでもなく、YouTubeのすごさはユーザーが無料で多ジャンルのおもしろ動画を閲覧できる点にある。テレビも無料だが、テレビとの違いはユーザーのニッチなものまで含めたほとんどの欲望を満たせるほどの配信者の多様性と動画時間の短さである。特に後者については、スマホのおかげで寝っ転がりながら、電車を待ちながら、細切れの時間にも閲覧できるようになったためテレビメディアとの差異化が著しい。『スマホ脳』的に言うならば、原始時代から注意力散漫な人類にとって、短い動画時間はとても「適している」のだ。

 YouTubeの無料サービスは画期的なようで、実はシンプルな、むしろ旧来型の構造をとっている。つまり、デジタル情報財を無料でユーザーに提供し、収益源は19世紀から続く広告事業に依存している。YouTube(の運営元であるGoogle)の商売の実態は広告業なのである。*1

 ぼくのような素人は、広告事業のスケールというかメリットのようなものがあまりイメージできない。先日、古くからの付き合いのユーチューバーの友達と飲んだ時、そんな疑問をぶつけてみた。すると、「たとえば空気清浄機買おうってなったらどの商品を買う?」「うーん、Panasonicかなあ(あるか知らんけど)。」「ね。広告ってそういうことよ。」と、まあそうだよなあという感想ではあったが、要するに彼は、ぼくたちの知覚になんども商品や記号を刷り込むことの経営戦略上の重要性は昔から変わらないということを教えてくれたのだろう。

 その話を受けてふと思い浮かんだのは、オリンピックシーズンにテレビで見るハーフパイプ選手のヘルメットに描かれている切り裂くようなMonsterの文字であった。ハーフパイプ選手たちにモンスタービバレッジ社が莫大な報酬を支払うのは、大げさにでなく生死をかけて雪上を舞い、回転し、人々を魅了するアスリートたちが発するカッコよさ、熱量、スマートさといった付加価値を企業側が得られるからなのかもしれない。

 広告は見てもらわなければ意味がない。さらには何度も見てもらった方が効果的である。ところが、デジタル空間では広告は一般的に邪魔者扱いされている。クリックしたつもりはないのにページがジャンプしてしまった経験は誰もがあるだろうし、YouTubeにおいては動画を見る前に5秒間の広告時間を我慢しなければならない。こういう場合、多くのサービス側は課金メニューを用意しており、不便やイライラは金で解消できるようにしているが、そもそも、広告無しの有料メニューを提供している時点で広告事業の本質と矛盾したことをしている。*2

 この「ねじれ」はデジタル広告空間の特性が忘れさせてくれることになっている。物理的制約がないためいくらでも広告をうてばよいのだ。広告が邪魔と思われ、注目を引く確率が低かろうが、20億人以上が見てくれる情報空間においては採算がとれる。広告単価の低さも量がカバーする。広告が邪魔だといって有料サービスに移行するような可処分所得が高いユーザーははなから相手にしていないと言っても言い過ぎではないかもしれない。*3ぼくたちが享受する無料サービスはこのようにして成り立っている。

 質より量がものをいうGoogleに代表されるようなデジタル広告プラットフォームでは、広告主は広告媒体が誰であるかを知らない、というかそんなことに興味がない。YouTubeではGoogleアルゴリズムによって広告がどの視聴者に届くかが自動的に決まるからだ。経営学者の楠木建は次のように言う。

・・・ほとんどの場合、YouTubeの動画配信の報酬は、グーグルが機械的に割り当てた広告によって発生する。広告主は私(の動画)に発注しているのではない。グーグルに広告費を支払っているに過ぎない。彼らは支払った広告費が私の動画に使われるかどうかは知らないし、そんなことには関心を持たない。広告が視聴者に届けばそれでいい。そこには視聴者のコミットメントはもちろん、広告主のコミットメントもない。*4

 より多くの広告が視聴者のもとに届けば広告媒体側の取り分が多くなる仕組みの下では必然的に、提供されるサービスは簡単で分かりやすく実用的、あるいは刺激的で興味を引きやすいものに収斂していく。オススメ時短料理メニューから浮気やゴシップまで、あるいは有名人の発言の切り抜き、芸能人のもめごとなどの炎上案件…。

 

・・・

 

 ここ最近では、YouTubeのような無料サービスの勢いが増すのと対照をなすように、有料サービス市場も急成長を遂げている。ICT総研が2020年10月に実施したWebアンケート調査の結果では、調査対象者4409人中、定額制音楽配信有料サービス利用者は848人(19.2%)で、前回調査の2019年5月時点に比べて有料サービス利用者は4.8%増加していたようである(ちなみに無料サービス利用者の伸び率は0.7%)。*5 さらに、動画配信市場で躍進を遂げるNetflixは2020年末時点で有料会員数は2億366万人に達した。*6

 人がサービスにお金を払いたいと思うかどうかは、その提供財が文化的なのかどうかにかかっていると楠木は言う。*7たしかに、現実として無料サービスとの競争にさらされながらも有料配信分野で特に成長をしているのは音楽や映画、ドラマなどの情報財である。音楽や映画などの分野は、たえず多くの批判や批評がつきまとい、その中で作品の質が磨かれ次世代に受け継がれてきたという歴史的蓄積がある。彼の「文化」の定義はこうである。人々が能動的に関わり、心を動かされるもの。刹那的な刺激への反射に終わらず、記憶として定着するもの。思考と行動の基盤として、その価値が一生続いていくもの。ぼくなりの解釈を加えるなら、文化財というのは普遍的な価値をもつものであると思う。それは時代が変わっても、いや、変わるからこそその価値がいっそう高まっていく。ぼくたちにとって指針であり、常に人々から参照され、物事の根源へのよすがとなるものが「文化」というもののような気がしている。

 個人的な経験を言うなら、ぼくにとって初めて価値観を激しく揺さぶられた作品は中学生の時に観たスティーブン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』だった。たしかDVDレンタルだったと思うが、あの素晴らしい名作をたかだか数百円で鑑賞できるというのは、文化財がいかに安く提供されているのか、幼心に驚きもした経験である。あの時に観た狂気の映像は今もぼくの価値観の根底にある。また、音楽でいうなら大学の頃にエルトン・ジョンの「ホンキーシャトー」のアルバムを聴いた時は衝撃を受けた。中でも「モナリザ・アンド・マッドハッター」はこの上なく美しい曲で、世の中にこんなに素晴らしい音楽があるのかと陶酔したものだった。その後、彼の最後の世界ツアーとなるライブを観に横浜まで行き、彼の生のピアノ演奏と歌声を聴けたことは人生で最高の忘れられない思い出である。

 だから、暇つぶしと文化は全く異なるものだ。いつの時代も娯楽はあるべきである。YouTubeは現代人に適合して進化した娯楽の形態だ。それはいつでもどこでも閲覧できるという意味でも究極の暇つぶしである。だがやはり、それは文化とは全く異なるものである。

 Googleのような世界トップの企業には、素人が想像もし得ないような経営上の戦略があることだろう。そこには経済だけでなく、人々の欲望をいかにして効率的に満たすのかといった心理学・認知科学の分野も組み込まれていそうだ。そういった専門知を駆使しながら、エキスパートたちはいかにぼくたちが暇な時間をサービスに費やしてくれるかに心を砕いている。ぼくたちに「いいね」ボタンを押させるために彼らがどれだけの事業費を注いでいるのかぼくには想像もつかない。その真剣さは別にしても、やはりぼくはインスタグラムに投稿される魅力的な飲食店をあくせく巡り、こじゃれた料理をさらにまたSNSに投稿する営みがぼくたちの心を豊かにしているかといえば全面的には賛同しかねる。それはあくまで暇つぶしとして捉えるべきなのである。評論家の河上徹太郎は1970年代時点ですでに、ぼくたちの余暇が規格化され勤労の精神をなぞるようになってしまった時代を嘆いたが、今の時代もそこにSNSが介在していること以外は何一つ状況は変わっていない。

・・・勤め人がたまの休日を人ごみに揉まれて郊外の遊園地あたりまで子供とあわただしい一日を過ごすみじめさはよく漫画のタネになっているが、一方われわれはお小使いをしわ寄せすれば昔なら貴族豪遊の独占であった旅行やホテル生活を味わうことができる。しかしそこには歪められた優越感・虚栄心以外にどんな陶酔があろうか。そしてまた、今では幽邃な古社寺の門前には観光バスが列び、名代の食い物屋が日に数百千の客を賄わねばならないとなれば、味はいやでも規格化せざるを得ない。

あくせくレジャーを求めて、どれだけ心身ののびやかさと解放感が得られるのか?実は勤労生活をちょうど裏返しにした時間の縄の目を、ノルマを達成するために勤勉に辿っているだけなのである。 *8

 

 心の豊かさとはなんだろう。この難題に答える用意は未熟なぼくには到底ないが、少なくともSNSや手軽な動画閲覧で手に入る代物ではないことくらいは何となく想像がつく。だが現代では、多くの楽しみが無料で享受できることも相まって、スポーツも映画も芸術も漫画も読書も、効率的で実用性のあることがありがたがられるようになった。現代の余暇には学びの辛さや苦痛も必要とされない。しょせんは暇つぶしなのだから、労働時間外の人生の適当な時間に、体調を崩さない程度に「ほどほど」に楽しめれば十分になった。余暇はあくまで明日の健康や労働のためであり、その意味で労働という目的至上主義の補完物に成り下がった。*9ぼくたちは人気ユーチューバーの動画を数十年後は覚えているだろうか。あるいはそれは未来の世代から参照され、受け継がれていくような歴史を持ち得るだろうか。答えはおそらく否だ。娯楽には人々の真剣な参加や態度は無い。心揺さぶられ、日常が覆ってしまうような経験は見つからない。きっとそこに、無料と有料、娯楽と文化の違いがある。

 文明はぼくたちを快適にしてくれたが、ぼくたちの心を豊かにしてはくれなそうである。

 

 

 

 

 

*1:『ゲンロン12』株式会社ゲンロン、編集人 東浩紀、「無料についての断章」楠木建執筆、2021年、125頁。

 

 

*2:同上、127頁。

*3:同上、127~128頁。

*4:同上、134頁。なお、彼はYouTubeで動画配信しているわけではなく、あくまでその想定でという一節である。

*5:2020年 定額制音楽配信サービス利用動向に関する調査|ICT総研【ICTマーケティング・コンサルティング・市場調査はICT総研】 (ictr.co.jp)

*6:Netflix、会員2億人突破 10~12月の売上高2割増: 日本経済新聞 (nikkei.com)

*7:同上、128頁。

*8:『有愁日記』河上徹太郎、新潮社、1970年。

*9:『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』鷲田清一、株式会社講談社、2011年、118~119頁。

今日は人の上

 みなさんは今でも嫌いな人間のことを思い出すことがあるだろうか。人は不思議なもので、好きな人間よりも嫌いな人間をふと思い出してしまうことが多い。本当は好きな人間と共有した時間に思いを馳せた方が幸福な気持ちになれようものだが、人間の性(さが)なのか、ぼくたちは嫌いな人間から味わった苦痛や苦い思い出を愚痴っては怒りを増幅させ、同時に自らの心を慰めてもいる。この心理現象に名前をつけられるのであれば幾分か救われる気もする。

 ぼくは大学時代に、10年に一度出会うか出会えないかという程の嫌いな人間に巡り合った。その人とは学科もサークルもいっしょであったため否が応でも関わらなければならなかった。その人を形容する一言を言えと言われれば、まず自信家という表現がしっくりくる。サークル運営でもアルバイトをしているときでも、自らの言動に揺るぎない自信をもっていて、自分は決して間違うことはないのだという態度が発言や振る舞いに如実に表れていた。また、そうした自信ゆえなのか彼はどこか人を見下すような高慢さも併せもっていた。彼は仕事のできない人間や自分より能力が劣っているとみなす人間に容赦なく陰で暴言を吐いた。そういった態度がまた、優秀ではあるはずの彼が周囲との人間関係をギクシャクさせる原因ともなっていた。

 彼のよく言う言葉に「自己責任」というフレーズがあった。期末試験や就活等でうまくいかなかった者に対して彼はそのフレーズを好んで使っていた。たとえ直接その表現は使わないときでも、彼のかける言葉には基本的な調子として、自ら招いた行動の結末は他でもない自分自身が責任をもって始末をつけるべきだというニュアンスが込められていた。

 社会学に少しでも興味のある人間であれば、「自己責任」というキーワードで1970年代から勃興してきたネオリベラリズムの思想を思い起こすかもしれない。世界的な潮流として、先進国の手厚い社会保障政策こそ経済政策がうまくいかない元凶と見なされ、福祉国家への風当たりが強くなった。その後、80年代以降はグローバル化が勢いを増し、国境を越えた資本の移動や多国籍企業の地球規模での生産活動が当たり前となっていった。*1国家はそうした多国籍企業に歩調を合わせるようにして、法人税率引き下げなどの企業負担の軽減や規制緩和を慣行する一方で、労働者の雇用環境は次第に不安定なものとなっていった。次第に人々は政府に頼るのではなく、自らの責任において労働市場という荒波をくぐり抜けていかねばならなくなった。

 ぼく自身は95年生まれだが、ぼくが生まれる数年前、90年代初頭に日本ではバブルが崩壊し、いわゆる「失われた20年」に突入していった。日本では、それまでの学歴競争を勝ち抜きいい会社に入れば何とかなるという見通しは通用しなくなっていった。男性の働き手が長期安定雇用と年功賃金により家計を支え、家族は子どもの教育費に多額の費用をかけ、教育を修了した子どもは新卒一括採用によって企業に支えられる。他方で政府はこの循環構造を利用して、企業の雇用さえ守れば教育と家族への社会保障支出を抑制できた。*2ところが、高度経済成長時代以降に形成されていったこの「戦後日本型循環モデル」*3もグローバリゼーションによって揺らぎ、バブル崩壊によって実質的に終焉を迎えた。

 今は死語となったかもしれないが、「勝ち組」「負け組」という用語が使われるようになったのもちょうど前述の時期、だいたい90年代後半からである。*4ぼくの世代というのは安定的な生き方のモデルが現在進行形で溶解していく時代に生をうけ、物心つく頃から社会とは自らの責任のもと、独力で生き抜いていかなければならないものと思ってきた世代である。ぼくの嫌いな彼の勝ち誇り人を見下すような態度も、言わばグローバリゼーションが強いた苛烈な競争社会という生態系に適応した姿だったのかもしれない。

 自己責任意識が強いことは、自分の失敗も素直に許容できず自らに重圧をかけるような生き方を選ぶということでもある。だからこそ、もし人生で成功をつかんだ暁には、自らに課した重圧から解放されると同時に、その成果は自分の存在を何よりも肯定する材料となる。

 「自己責任」は負の形としてしばしば失敗に使われることが多い。そしてそれは、正のイメージに使われる時「能力主義」という形をとる。「努力が身を結んだ」というのはこの代表的な表現である。わざわざ言葉にすると違和感がある程に、この価値観はぼくらの深層心理にまで深く刻み込まれている。

 

・・・

 

 人が何か失敗した時、「自ら招いた行動の結末は他でもない自分自身が責任をもって始末をつけるべき」であるなら、その規範は裏を返せば、ぼくたちが何か成功した時その成果はその人の手柄であることを含意する。成功者はほかならぬその人の能力によって何事かを勝ち取ったのである。

 ぼくたちはたとえば試験に合格した時や就活で内定をもらえたとき、それを自らの能力によって獲得した成果だと思う。これまでの練習や努力が実を結び、結果につながったのだ。成功はその人の能力が正当に評価されたことの証であり、成果物はその人の功績なのだと。

 そんなの当たり前だと思われるかもしれないが、意外にも、このような自らの能力によって何かを勝ち取るという考え方が広まったのはここ40年くらいのことに過ぎない。初めて公にフレーズ化したのは当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンだった。

「すべてのアメリカ人に個人の能力や功績のみに基づいて評価される権利がある」

「本人の努力と夢が許すかぎり出世する権利がある」*5

その後はバラク・オバマもこのレトリックを好んで使用した。

・・・つまり、この国では、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、名字が何であろうと、どんな挫折を味わおうと、懸命に努力すれば、自ら責任を引き受ければ、成功できるのです。前へ進めるのです。*6

 

 このような能力主義はとりわけぼくくらいの世代の人間にとっては当たり前の価値観である。戦後日本の循環モデルが崩壊したあとの日本では、「ゆとり教育」の方針も相まって、「人間力」や「生きる力」を身につけて先行き不透明な社会をとにかく生き延びろと要請されてきた。その結果、多くの人は社会人になれば誰にも頼らず独力で労働市場に対応していかなければならないのだと思うようになった。実際、2007~11年期間中の若者の意識調査では、「若者が安定した仕事につけないのは、本人のがんばりが足りないからだ」「貧しいのは本人の責任だ」などの「自己責任」に関する項目の肯定率は約5割にのぼる。また、「自分の能力を発揮して上げた実績によってその人の価値が判断されるのは、良いことだ」「仕事には、その仕事にふさわしい能力をもった人がつくべきだ」といった「能力主義」を評価する項目はいずれも8~9割の高水準で推移していたようだ。*7

 かつてよりも予測が難しく困難な社会であっても、懸命に働き、努力すれば彼らの才能が許す限り出世できるという能力主義は、一見すると公平で素晴らしい価値観に映る。しかし、個人の功績ばかりに焦点があてられる社会はとても過酷な社会であると言わなければならない。

 誰もが人生で一度は経験する、自信家の言動に対するいら立ちや鼻に付く感じ。これは感情的とはいえ明確な根拠がある。能力主義的態度は人の自尊心を傷つけるのだ。自分の運命は自分の手の中にある、やればできるといった指南や励ましは人を元気にさせることもあれば不愉快にさせることもある。仕事が見つからなかったり、うだつの上がらない日々を送るものにとって、自分がうまくいっていないのは自業自得であり、才能がないからだと自責の念に駆られることほど耐え難い感情はないだろう。*8こう思わなければならない社会は果たして幸せな社会なのだろうか。

 実際、こういった感情は軽視すべきものではなく、2016年にはドナルド・トランプがこの屈辱的な感情をもつ有権者を動員することによって大統領選挙を制したのである。トランプを支持した者の怒りは、テクノロジーと外部委託に伴う失業、グローバリゼーションが加速させた経済的不平等、そして何よりも、能力主義社会が生み出した「勝者のおごり」*9に向けられていた。

 能力主義メリトクラシー)という用語は今から60年前にイギリスの社会学マイケル・ヤングが作り出した。『The Rise of the Meritocracy』(『メリトクラシーの法則』)という著書の中で彼は、いつの日か階級間の障壁が乗り越えられ、誰もが自らの能力だけに基づいて出世する真に平等な機会を手にしたなら…と夢想した。だが、他でもない彼自身が、そんな能力主義社会の暗澹たる未来を見据えていた。ようやく労働者階級の子どもたちが特権階級と肩を並べて競い合うことができる。そんな素晴らしい世界の片隅で、勝者にはおごり、敗者には屈辱感が育まれていくだろう。*10勝者は自分たちの成功を自分自身の能力、努力、優れた業績への報酬に過ぎないと考え、自分より優れていない人間を見下すことだろう。成功できなかった人々は、その責任がすべて自分にあると思い込むだろう。*11

 ぼくたちは、自らの能力を疑うことは意外にも少ない。特に、高等教育の入学試験や就活を戦い抜いてきた者にとって、自分は努力した末に選抜されたという経験は能力主義的態度を形成するためのよき通過儀礼となっている。女性の貧困問題などに関わってきたライターの栗田隆子は、個人的経験として社会人になってから女性の容姿や外見にまつわる差別的なハラスメントをほとんど受けてこなかった要因について、そもそも自分は雇用の入り口でルッキズムのスクリーニングを通ってきたからではなかったかと分析する。*12つまり、彼女はすでに外見で何社か落とされており、たまたま就職できた場所が「その外見でもOK」とされた場所であったかもしれないというのである。*13紛れもないこのわたしが試験を通過できたという事実は、その選考過程について考えを巡らすことをスキップさせ、自分自身が選ばれるに値する人間だったのだと錯覚させる。現実には、採用側は受験者の能力のみを純粋に見ているわけではない。選考基準には多分にルッキズムや経済的不平等が含まれている。

 今一度、ぼくたちは能力とは案外恣意的なものなのだと再認識すべきなのかもしれない。一流大学への入学や就職内定をつかみ取ることについて、多くの人は自らの力で達成したと考える。しかし、それは本当に自分だけの手柄だろうか。献身的にサポートしてくれた親や熱意をもって指導してくれた先生や先輩がいなかったらどうだろう。あるいは、出世や事業の成功は果たして当人の功績だと言い切れるだろうか。全てがお金で測られる市場経済において成功するとは、その人が優れているとか社会により貢献してくれたなどという単純な事実を意味しない。厳密に言うなら、彼らは「類まれな天分や狡猾さ、タイミングや才能、幸運、勇気、断固たる決意といったものの不可思議な絡まり合いを通じて、いかなるときも消費者の需要を形づくる欲求や願望の寄せあつめにーそれがいかに深刻なものであれ馬鹿げたものであれーどうにかして効率的に応えてきた」*14のである。

 史上最高のサッカー選手であるリオネル・メッシの年俸は4100万ドル、日本円にして約38~45億円のようだが、この給与は高いだろうか。おそらく多くの人間は妥当だと答えるだろう。その理由はきっと「彼は苦労してきた」や「彼の働きぶりに見合っている」といったものだろう。たしかに、一瞬で試合を決定づけてしまう精巧かつ芸術的で悪魔的な得点能力はまさに唯一無二とでも言うべきである。だが、ぼくたちは同時に次のことを忘れてはならない。幼少期に成長ホルモンに問題を抱えた彼を根気強く見守った家族やスカウトの献身と見識、そしてアスリートとしても人間としても成長を支えた下部組織の存在がなければ彼は歴史に名を刻む偉大なプレーヤーにはなっていないだろうという境遇について。そしてさらに、彼が生まれ落ちた時代が、荘園領主の下で農奴として年貢を納め続けなければならないような時代ではなく、サッカーというスポーツが世界中から脚光を浴びる現代であったという幸運についてだ。

 自らの運命は自らの手でつかみ取らなければならない。自分の失敗は自分で何とかしなければならない。だが、それは本当だろうか。自己の責任をあまさず双肩に担える人間など、いったいどこにいるというのだろう。自分の運命を自分だけで決められる人間など、この世のどこを探しても存在しない。ぼくたちはこう言うべきだ。「様々な偶然や奇跡が重なって、どうにかこれまで生かされてきた」と。

 

・・・

 

 「勝者のおごりと敗者の屈辱」はぼくたちの社会に修復困難な分断と軋轢を生む。成功した者とそうでない者の差が能力にしかないことほど救われないことはない。能力主義の価値観のもとでは失敗は何のせいにもできない。むしろ、こう考えることもできる。もし何かの試験で選考される基準に機会の不平等があり、資産や家柄に基づく偏向があったなら、たとえ失敗したとしても、本人にとってどれだけそれが言い訳になり、慰めになっただろう、と。*15人がどんなに不遇をかこったとしても努力や意欲が足りなかったからに過ぎないとされるのでは、社会をよりよくするための公共的議論は生まれようがない。お互いにとって、所詮「あちらの社会」での出来事に過ぎないのである。

 マイケル・ヤングには、能力主義は単に目指すべき公平・公正なルールではなく、むしろ社会的軋轢をもたらす原因に見えていた。*16彼の予言は当たったと言えるだろう。われわれの社会の中心に「能力」という名の大きな仕切りがあり、まるで世界はあちらとこちらに分かれてしまったかのようだ。成功者は自らの手で運命を勝ち取ったとおごり、運に恵まれなかった者は自らの努力不足をただただ嘆く。世界はますます単純に映る。公的な議論はどんどん空洞化し、エリートに見下されていると感じる者の承認欲求はポピュリズムナショナリズムなどの極端な政治的言説に利用されていく。本当は、ぼくたちは経済的格差だけでなく、社会的敬意についてもっと注意を払うべきなのだ。

テクノロジーや外部委託に起因する失業に伴って、労働者階級が携わる仕事に対する社会の敬意が低下していると感じられるようになった。経済活動がモノをつくることから資金を運用することへと移行し、ヘッジファンドのマネジャー、ウォール街の銀行家、知的職業階級などに対して社会が途方もない報酬を気前よく与えるようになると、昔ながらの仕事に払われる敬意は脆く不確かなものになった。*17

 

 問題はパイの分け前が少ないことではない。機会の不平等でもない。そんなに遠くない昔、アメリカでは黒人や女性に人権は適用されていなかった。彼らが「人間」としてカウントされていなかった時代があった。*18これは機会が平等になれば解決する話ではない。スタートラインを同じにすることが大事なのではなく、そもそも競争をしていい結果を残せなければ尊厳が得られない世界が問題なのである。機会の平等は、不正義を正すために必要な救済のための原則ではあっても、善き社会にふさわしい理想ではないのである。*19

 ぼくたちが心から望んでいるのは、どんな生活水準であってもお互いの社会的価値を理解し合い、尊厳をもって暮らしていける社会であるだろう。そんな柔らかい社会の実現にとって、能力主義的態度は何よりも大きな障壁としてぼくたちの前に立ちはだかる。成功者の高慢さは成功できなかった者の自尊心を傷つけ、傷ついた者たちは劣等意識によってどこまでも自分を嫌いになってしまう。自らのアイデンティティが絶えず揺らいでいる現代人には連帯意識や公共討議の形成が非常に困難なものに映る。ぼくたちは、自分とは年齢や職業、ジェンダーの異なる他者の立場を想像したり、彼らの話を傾聴したりすることが次第にできなくなりつつある。

 生産性で人間の価値が測られてしまう厳しい世界にあって、ぼくたちが公共的態度を育むには、何より運命に対する謙虚さが求められる。なぜなら、己の境遇は奇跡と言ってもいい偶然性に満ち溢れているという実感こそが、他者の不幸を他人事ではないと思わせる契機となるからだ。哲学者のマイケル・サンデルが次のように述べる謙虚さはぼくたちの生き方の良き手本となるものだ。

・・・われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。*20

 

 ぼくたちはここから始めるしかないのかもしれない。

 

 たとえ山の頂からの景色を見ることがかなわないとしても。

 

 

 

 

 

 

*1:『Do ソシオロジー』[改訂版]友枝敏雄・山田真茂留編、株式会社有斐閣、2013年、208~209頁。

*2:『平成史講義』吉見俊哉編、株式会社筑摩書房、2019年、133~134頁。

*3:同上、133頁。

*4:友枝敏雄・山田真茂留編、前掲書、127頁。

*5:『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル、株式会社早川書房、2021年、100~101頁。

*6:同上、102頁。

*7:吉見俊哉編、前掲書、155~156頁。

*8:マイケル・サンデル、前掲書、41頁。

*9:同上、48頁。

*10:同上、47~48頁。

*11:同上、48頁。

*12:現代思想 11月号vol49-13 |特集|ルッキズムを考える』青土社、2021年、142~144頁。

*13:同上、144頁。

*14:マイケル・サンデル、前掲書、199頁。

*15:同上、199頁。

*16:同上、48頁。

*17:同上、48頁。

*18:『日常・共同体・アイロニー宮台真司仲正昌樹、有限会社双風舎、2004年、63頁。

*19:マイケル・サンデル、前掲書、318頁。

*20:同上、323頁。

SEASONS

この間、前の職場で一緒だった後輩と久しぶりに飲みに行った。

 

ぼくが初任で勤めた職場で、ぼくが2年目の時に入ってきた1つ年下の後輩だった。

 

当時も何度か飲みに連れて行った仲だった。彼にとっては他県で、しかも見知らぬ土地ということもあったから、お酒を飲んで上司やら職場環境やらの愚痴を言える場は貴重だったことと思う。2年間の県外勤務の後、彼は地元の県に戻ったのだった。

 

1年間という短い期間の付き合いではあったが、彼も徐々に仕事に慣れ、ぼくとの距離感も縮まるにつれて、ぼくに対してあけすけにものを言ってくれるようになった。

 

久しぶりに後輩と再会したその飲みの席で、ぼくの同期が婚約したという話題になった。ぼく自身は一般に職場の人間との付き合いが浅いからそんな話は初耳だったが、その後輩は婚約した同期とも仲が良い(前の職場をぼくが去った後後任で入ってきたのがその同期だった)ために知っていたのだった。

 

また、その後輩は地元ではなくこちらに彼女がいるとのことだった。その日はぼくと飲んだ後に彼女の家に泊まるらしいから、ぼくらの飲み方では珍しく、22時くらいで切り上げて一軒目でお開きとなる日であった。婚約した同期と、遠距離恋愛中の後輩。次第にその場は結婚やら将来やらのことで持切りになった。

 

男女の交際や結婚の話題は前から苦手だった。自分に大した恋愛経験がないこともその理由の一つだが、最近気づいたもっと大きな理由として、仮に自分が交際していたにせよ、そんな話をしても自分にはその先が決してないだろうことが分かり始めたということがある。

 

ふと気づけば、二階堂の水割りの酔いに任せて、必死に心理的な駆け引きやらデートやらをして交際し、結婚して子どもを産むということ、それ自体が無条件に肯定されるのはなぜだろうと、そんな疑問が澱みなく口から発せられていた。

 

「先輩は子育てなんて向いてないししない方いいっすよ笑」

 

後輩がはっきりとそう言ってくれて、ぼくは嬉しくなった。

 

「結婚はしてもいいと思うんすけど、なんか、無理に普通に染まんない方がいいと思います笑」

 

普通と異常、マジョリティとマイノリティ、画一性と多様性。いつの間にか「マイノリティ」やら「多様性」は二項対立の図式に収まるようになってしまったのか。

 

後輩のその言葉は、ぼくへの敬意なのか呆れなのか、はたまた感心なのか嘲笑なのか、人の気持ちを汲み取るのが苦手なぼくには判然としなかった。でも、何だか嬉しかった。

 

人は単にセックスをしたいのか、子どものいる未来を築き上げたいのか。ぼくのように「明日死にたくない」*1とは思わない人間にとってはそのどちらも同じことだ。あの穴に棒を入れて腰を振る摩擦運動は、単なる快楽でもあり、一方で、出生という営みを素直には肯定できない人間を生み出してしまったりもする。その落差を思うぼくの心の中のわだかまりはずっと消えることはない。

 

では、なぜお前は今すぐ死なないのだ。そう思う人もいるだろう。でも、自分を殺すことが遂行可能だとすれば、*2「明日死にたくない」とは思わないことは遂行不可能なことだ。

 

人には必ず、家族になら話せること、恋人になら話せること、友人になら話せること、職場の人間になら話せること、あるいは、カウンセラーになら話せること、色街の人間になら話せること、そして、誰にも話せないことがある。そうして引き算をして、自分の中に残るものを実存とか個性とか言うのだろう。

 

その秘密の部分が大きい人間は、精神疾患患者として取り扱われることもある。

 

社会には幸福な人間と不幸な人間がいるのではない。考えてしまう人間と考えないで乗り越えられる人間がいるだけだ。

 

その後輩は以前、俳優の三浦春馬が好きだった。三浦春馬ポールスミス愛好家だったようで、後輩もその真似なのかは分からないが、たしかに以前の職場の時からポールスミスの時計を身に着けていた。一ファンであるその後輩は三浦春馬が自殺したと聞いてかなりショックを受けたみたいだ。

 

2020年に女優の竹内結子も自殺をしたが、彼女にとっては夫と二人のまだ小さな子どもの存在は、この世界に彼女を繋ぎ止めてくれる理由には足りなかったというのは、なんとも胸を締め付けられる思いだった。

 

よくスポーツ名門校の監督が言う言葉に、アスリートとしてではなくまず人として、社会人として一人前の人間になることが1番だという指導方針がある。スポーツで勝利することも大事だが、それ以上に協調性や自分の頭で考え判断する力を養うことが大事なのだと。

 

だが、そもそも社会に出てみると、その社会では、労働し賃金を得て明日も生き、結婚をして新たな生命を生み出すことが無条件に、考えられもせず善とされる。そのことは誰も疑問に思っていない。協調性も自律心も、あくまで近代がぼくらに植え付けた個人主義の産物であって、ぼくらは「大人」として成熟することが社会では求められている。そのことに気づかせてくれるのは両親でも恩師でもなく、200年以上も前に生きていた哲学者の本である。

 

「何かあったら、仕事とかそういうのどうでもいいから、連絡くださいね笑」

 

社交辞令であったとしても、そう言ってくれる後輩に恵まれたぼくは幸せな方なのだと感じた。

 

ただぼくは、状況によってはこの幸福な感情は、生き延びる動機にもその逆にもなり得ると思った。

 

ふと、以前に仕事の窓口で対応した、19歳の娘さんを亡くしたお母様の姿が思い出された。

仕事柄、死亡者の受給権を請求できる制度があるため、その対応をした時だった。そういう時は、事前に遺族から担当者宛に連絡がくる。必要書類を伝え、案内文もそのお母様に郵送した。数日後、彼女が来所したのだが、窓口で住民票だったか何かの書類を忘れたとおろおろし始めた。とても狼狽していて、「あんなに確認したのに…」と自分を責めるような調子でつぶやいた。俯いていた彼女を見て、涙がこぼれそうになった。想像してしまった。娘さんを亡くしたお母様が精神的に大変な中で、重い足を引きずって市役所に出向いてくれたであろうこと。でも、やっぱり動揺していて、今日当日、書類を忘れてしまったであろうこと。その全てが、ぼくには耐えられなかった。

 

その娘さんは自殺だった。当然詳しくは言えないが、死亡診断書の内容はとても見ていられないものだった。

 

後日、不足書類を持参していただいたお母様が「〜さんのおかげでここまでやれました。」と言ってくれた。自分も今でも崩れ落ちそうなのに他人を労われるその心に、またしても涙がこぼれ落ちそうになった。

 

彼女は必死に生きたのだ。もっと頑張れた、と言う人間がいたとしたら、その人は想像力が著しく欠けていると言わざるを得ない。きっと、もっと生きたいと思いながらも、そんな自分を必死につき離しながら、彼女は自分を殺したのだ。

 

ぼくの発言には、20代の若者が言っていること、若さということ以外には何の価値も無いなんてことは分かりきっている。それでも、「明日死にたくない」とは思わない自分の思考だけは、法律にも誰にも邪魔されない、ぼくだけのものだ。

 

 

浜崎あゆみの曲にSEASONSという曲がある。限りある季節に僕たちは何を見つけるのだろう、と締めくくられるその歌詞は、あくまでも今日、明日、そして春夏秋冬と、明日が来ることに何の疑問も挟まない人間に向けられている。

 

もしも季節の移り変わりに心が動かされるような人間であったなら…。

 

仮定法過去はなぜ過去形なのだろう。もしかすると、条件節が常に過去形であるのは、もはやそれが永遠に叶わぬ、過去の経験から想像して頭の中で組み合わせることしかできない、その限りで実現不可能な夢であるという、残酷な通達だからなのかもしれない。

 

 


www.youtube.com

*1:朝井リョウ『正欲』株式会社新潮社、2021年、4頁。

*2:現代思想11 特集|反出生主義を考えるー「生まれてこないほうが良かった」という思想』青土社、2019年、14~15頁。

リスク回避という安楽

 最近、お昼ご飯を買いにコンビニに行くと、ゼロシュガーやカフェインレスのエナジードリンクをよく見るようになった。ことエナジードリンクに限らず、他にも~オフシリーズの商品ではノンアルコールビールや糖質〇%オフのカップ麺も増えている。また、喫煙者であるぼくは、嗜好品の中でも先のようないわば「ノン・レス・オフ」化の流れを汲むものとして、電子タバコ市場がそのシェアをどんどん広げていくことも驚きのまなざしをもって見てきた。

 まず、ゼロシュガー・カフェインレスのエナジードリンクや低糖質のカップ麺、電子タバコが流行するのは意外な感じがした。なぜなら、ジャンクフードや嗜好品は刺激が強い分快楽も大きいことにこそ魅力があるのであって、その刺激を軽減させてしまっては快楽も薄まってしまうと思うからである。とはいえ、これだけ「ノン・レス・オフ」商品が定着するからには、当然、ジャンクフードや嗜好品に比べて快楽は半減するが低刺激を求めるという人々がかなり多いということだろう。

  もともと、嗜好品にはリスクがつきものであり、またリスクがあればあるだけ気持ちいいし楽しいし美味しいというのもまた事実である。たとえば、極上の快楽として知られるドラッグは脳機能の破壊、喫煙ならばガンや呼吸器系疾患、アルコールは肝機能障害や二日酔い…。酒呑みならばきっと一度はこんな経験がある。もう最後の一杯にしようと言いながら、会話も弾み「もうちょっと飲むか」ともう一杯、もう一杯と酒が進む。飲めば飲むほどもっとこの場にいたいと思う。飲みすぎて家族に怒られる、明日の朝遅刻する、二日酔いで仕事をこなさなければならない…。そんな自分が鮮明にイメージできるとしても。逆に言えば、辛い未来があるからこそ、この瞬間のお酒がよりうまかったりする。

 ところが、最近はみなリスクと快楽を両方受け容れることが難しくなっているように見える。ぼくたちはことあるごとに怒られないか、目立ちはしないか、行き過ぎてはいないか、はみ出してはいないかと自制心を働かせている。楽しさや気持ちよさを素直に享受するのではなく、それによってどういう迷惑がかかるか、どういうリスクがあるのかに配慮し、それに対するケアを怠らないことは社会生活上の最低限のマナーとなっている。

 したがって、「ノン・レス・オフ」の商品は今の時代にぴったりの、よくできた商品だと言える。それらは他人に迷惑をかけたくないぼくたちが選びうる最善の選択となりつつある。電子タバコならニオイもつかないし副流煙による害悪も軽減される。ノンアルコールビールならばアルコールによる様々な失敗もしなくて済むだろう。「ノン・レス・オフ」という枠組みは今や「SDGs」や「フェミニズム」同様、間違いのない選択肢となっており自分にも他人にも言い訳ができる安心材料なのだ。つまり、その選択はリスク回避の安楽という様相を呈している。

 思い返せば、ぼくたちの社会は様々な場面において、リスクを徹底して排除するようになった。子どもたちの遊ぶ場はどんどん減らされている。道路や公民館でボールをけって遊ぶ子どもは見なくなったし、危険な遊具はすぐに撤去される。大人になれば日ごろからコレステロールや肝臓の数値を気にし、会社組織ではハラスメントにならないかとコミュニケーションにも配慮せねばならない結果、人付き合いも適度な距離で機械的にこなしていくようになった。

 事前にあらゆるシュミレーションをして予測し、危険を回避することは複雑化する社会においてとても大事なことだろう。けれども、次はこんなリスク、その後はこんなリスク…と目まぐるしく推移する社会では、問題の本質がどこにあるのかという問いは忘れられがちである。たとえば、「お母さん食堂」というブランドを女性差別的であるという理由で撤廃させたとして、果たしてそれで女性差別という構造は解決されるのだろうか。この問題意識について、思想家吉本隆明は次のように述べている。

現在、身近に迫ってくる社会的な事件は、〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉が両方混ざって出てきていると理解した方がいいと申し上げました。・・・緊急の課題というのは、こちらからあちらへいく課題です。それでは永遠の課題は何かといったら、ある社会的な事件があったら、その事件を、時間的に言えば未来、もっと親鸞的な言い方をすれば浄土、あるいは死からの光線で照らし出してみなければわからない問題です。・・・たとえば、煙草を吸うのは体に悪いからやめようじゃないかという嫌煙権の運動があります。煙草を吸うか吸わないかという一見すると小さな問題を、緊急の課題として解こうとすると、煙草はガンになるからやめたほうがいいというお医者さんのような考え方になったり、嫌煙家の人の考え方みたいになってしまいます。・・・しかしぼくはそれが正しいとおもいません。なぜなら、煙草を吸うか吸わないかという問題のなかには、永遠の課題があるからです。・・・未開社会の時から、麻薬や嗜好品を人類は嗜んできました。一時的な快楽や安楽、一時しのぎの苦悩からの解放であったりする麻薬や酒などの、体に絶対によくないであろう嗜好品を、人類はなぜ嗜んできたのでしょうか。人間性のなかには、生理的には悪いとわかっていることでも嗜まざるを得ない精神状態があるという問題は、永続的な課題であり、嫌煙家の人には絶対に解けないことです。*1

 

 多分、ぼくたちの社会はもう、免疫をつけるとはどういうことなのかを忘れてしまったのだろう。人は失敗を乗り越えて強くなる、といった教訓も言葉としては残っても教育的に実践することは困難となった。健康は大事。命は大事。その通りである。反論の余地はない。最近はみんなまともなことしか言わなくなった。理性でもって、こうすれば危険は回避できるといった類のことしか言えなくなった。先の吉本の言葉を借りるならば、現代人は「緊急の課題」のことで頭がいっぱいなのだ。

 たわむれに、この時代状況を免疫学的な比喩で表現し結びとするならば、政治的正しさに満ちた社会は殺菌・消毒を徹底する清潔で健康な身体、「炎上」はウイルスの侵入である。身体は当然免疫反応として異物を徹底的に排除しようとする。だが、皮肉なことに、あまり異物慣れしていない清潔で健康な身体は、時たま過剰な自己防衛システムを起動し、無害な物質までも攻撃することがある。最近はこういったアレルギー反応がそこかしこで起こっている気がしてならない。

 

*1:吉本隆明吉本隆明が語る親鸞』株式会社東京糸井重里事務所、2012年、185~188頁。

When I was Your Man

Same bed but it feels just a little bit bigger now
Our song on the radio but it don't sound the same
When our friends talk about you, all it does is just tear me down
'Cause my heart breaks a little when I hear your name

いつも寝ているベッドなのに今は少し広く感じる
いつも一緒に聞いてた曲も今は違う曲みたいだ
友達と話してて君の話題になると その場から逃げ出したくなるんだ
だって、君の名前を聞いただけでこんなにも苦しいんだもの
It all just sounds like ooh, ooh, ooh, hoo
Mm, too young, too dumb to realize
That I should have bought you flowers
And held your hand
Should have gave you all my hours
When I had the chance
Take you to every party 'cause all you wanted to do was dance

全てがこんな感じに聴こえてる ooh ooh ooh...
ぼくも子どもみたいだったしバカだった 気づくのが遅すぎたんだ
君に花束を贈ればよかった
君の手を握って
君にぼくの全てを捧げればよかった
そのチャンスがあったんだから
君をパーティーに連れて行けばよかった 君はダンスがすごく好きだったもんね
Now my baby's dancing
But she's dancing with another man

だから今頃君はどこかで楽しそうに踊ってるんだろうな
でも、その隣にいるのはぼくじゃなくて他の男なんだ

My pride, my ego, my needs, and my selfish ways
Caused a good strong woman like you to walk out my life
Now I never, never get to clean up the mess I made, oh
And it haunts me every time I close my eyes

プライドが高くてエゴイストで、わがままばっかり言って自己中心的だった そりゃあ君のように思いやりがあって忍耐強い女性もぼくから離れていくわけだよ
もう頭の中はぐちゃぐちゃで整理がつかないんだ 目を閉じるとこんな感じで永久ループさ

It all just sounds like ooh, ooh, ooh, hoo
Mm, too young, too dumb to realize
That I should have bought you flowers
And held your hand
Should have gave you all my hours
When I had the chance
Take you to every party 'cause all you wanted to do was dance
全てがこんな感じに聴こえてる ooh ooh ooh...
ぼくも子どもみたいだったしバカだった 気づくのが遅すぎたんだ
君に花束を贈ればよかった
君の手を握って
君にぼくの全て捧げればよかった
そのチャンスがあったんだから
君をパーティーに連れて行けばよかった 君はダンスがすごく好きだったもんね

Now my baby's dancing
But she's dancing with another man
だから今頃君はどこかで楽しそうに踊ってるんだろうな
でも、その隣にいるのはぼくじゃなくて他の男なんだ

Although it hurts
I'll be the first to say that I was wrong
Oh, I know I'm probably much too late
To try and apologize for my mistakes
But I just want you to know

つらいけど
まずはぼくが間違ってたって言わないとな
そうだね ぼくの犯した過ちを謝罪するには遅すぎる
でも 君に分かってもらいたいんだ I hope he buys you flowers I hope he holds your hand Give you all his hours When he has the chance Take you to every party 'Cause I remember how much you loved to dance Do all the things I should have done When I was your man Do all the things I should have done When I was your man

あの時君に花束を贈ってあげたかった
あの時君の手を握っていたかった
ぼくのすべてを捧げたかった
そのチャンスがあったんだから
君をパーティーに連れて行きたかった
君がどんなにダンスが好きか 知っていたから
もしもあの時に戻れるのなら すべきだったことをさせてほしい
君の男だったあの時に
もしもあの時に戻れるのなら すべきだったことをさせてほしい
君の男だったあの時に


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

Bruno Mars - When I Was Your Man Lyrics | Lyrics.com

 

素晴らしい和訳→When I Was Your Man Bruno Mars 日本語 歌詞 和訳 | ティモシーDiary (ameblo.jp)

easy

Know it sounds funny
But, I just can't stand the pain
Girl, I'm leaving you tomorrow
Seems to me girl
You know I've done all I can
You see I begged, stole, and I borrowed! (Yeah)

おかしいってわかってるけど
でも、もう耐えられないんだよ
明日には君のもとを去ろうと思う
ベストは尽くしたよ わかってくれるよね
そうだね 色々と頼み込んだり 盗んだり 借りたり なりふり構わずに

Ooh, that's why I'm easy
I'm easy like Sunday morning
That's why I'm easy
I'm easy like Sunday morning!

だから今は気楽なんだ
日曜の朝のように 気楽なんだ
だから今は気楽なんだ
日曜の朝のように 気楽なんだ

Why in the world would anybody put chains on me?
I've paid my dues to make it
Everybody wants me to be what they want me to be
I'm not happy when I try to fake it! no!

どうしてこの世界ではだれもがぼくを鎖で縛りつけておこうとするんだ?
成功するためにずいぶんと代償を払ってきた
みんなぼくにこうなってほしいなんて勝手な理想像を押し付けてくるんだ
ちっとも幸せなんかじゃなかった 偽りの自分を演じるのは 幸せなんかじゃなかった

Ooh, that's why I'm easy
I'm easy like Sunday morning
That's why I'm easy
I'm easy like Sunday morning!

ああ、だから今は気楽なんだ
日曜の朝のように 気楽なんだ
だから今は気楽なんだ
日曜の朝のように 気楽なんだ

I wanna be high, so high
I wanna be free to know the things I do are right
I wanna be free just me! Whoa, oh! Babe!

高みに行きたい
自由になりたいんだ ぼくの行いが正しいって 自信をもって言えるくらいに
自由になりたい このぼくでいるために


That's why I'm easy
I'm easy like Sunday morning, yeah
That's why I'm easy
I'm easy like Sunday morning, whoa
'Cause I'm easy
Easy like Sunday morning, yeah
'Cause I'm easy
Easy like Sunday morning

だから今は気楽なんだ
日曜の朝のように 気楽なんだ
だから今は気楽なんだ
日曜の朝のように 気楽なんだ
そうさ 気楽なんだよ
日曜の朝のように そうさ
気楽なんだ
日曜の朝のように...


www.youtube.com

Commodores - Easy Lyrics | Lyrics.com

The Commodores - Easy の日本語翻訳 |Musixmatch